ウラジーミル・レーニン
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ウラジーミル・レーニン
Владимир Ленин
1920年のレーニン

ソビエト連邦
初代 人民委員会議議長
任期
1923年7月6日 ? 1924年1月21日
後任者アレクセイ・ルイコフ
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国
初代 人民委員会議議長
任期
1917年11月8日 ? 1924年1月21日
後任者アレクセイ・ルイコフ
ソビエト連邦
初代 労働国防会議議長
任期
1923年7月17日 ? 1924年1月21日
後任者レフ・カーメネフ
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国
労農国防会議議長 → 労働国防会議議長
任期
1918年11月30日 ? 1920年4月
1920年4月 - 1923年7月17日
後任者(廃止)
ロシア共産党(ボリシェヴィキ)
政治局員
任期
1918年3月 ? 1924年1月21日

個人情報
生誕ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ(Влади?мир Ильи?ч Улья?нов)
(1870-04-22) 1870年4月22日
ロシア帝国 シンビルスク
死没1924年1月21日(1924-01-21)(53歳)
ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ県ポドリスク郡ゴールキ
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ロシア社会民主労働党

ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ

ロシア共産党(ボリシェヴィキ)

配偶者ナデジダ・クルプスカヤ (1898?1924)


イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフ

マリア・アレクサンドロヴナ・ブランク

出身校サンクトペテルブルク大学
宗教無神論
署名

ウラジーミル・イリイチ・レーニン(ロシア語: Влади?мир Ильи?ч Ле?нин、1870年4月22日[注釈 1] ? 1924年1月21日)は、ロシア革命家政治家哲学者ロシア・ソビエト社会主義共和国およびソビエト連邦の初代指導者(人民委員会議議長)。「レーニン」は筆名(#筆名も参照)であり、本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ(ロシア語: Влади?мир Ильи?ч Улья?нов)。

ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派の指導者として活動し、1917年十月革命を成功させた後、初の社会主義国家であるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を樹立し、その行政府である人民委員会議の議長に就任した。1919年には第二インターナショナルに代わる共産主義政党の国際組織としてコミンテルンの創設を主導、その後1922年にはソビエト連邦の成立を指導し、1924年に死去するまで同国政府首脳(ソ連人民委員会議議長)の地位にあった。マルクス主義者として政治、経済の分析から哲学に至るまでさまざまな著作を残し、その思想はレーニン主義およびマルクス・レーニン主義として継承され、世界の社会主義国に影響を与えた( § 国際的影響)。
概要

1870年、ロシア帝国シンビルスク(現:ウリヤノフスク)で中流階級の教育者の家庭に生まれた。1887年、皇帝暗殺計画に関与した兄が処刑されたのちに革命思想に染まり、学生運動に参加してカザン大学を放校された。1893年にはサンクトペテルブルクに移り、マルクス主義活動家となったが、1897年に扇動罪で逮捕され、シベリアの寒村での流刑に処された。刑期が終わると西ヨーロッパに移り、ロシア社会民主労働党の幹部として頭角を現したが、同党は1903年にレーニン派のボリシェヴィキとマルトフ派のメンシェヴィキに分裂した。1914年に勃発した第一次世界大戦については資本家による帝国主義戦争と定義し、戦争を全ヨーロッパ的なプロレタリア革命へと転化することを提唱した。1917年の二月革命で帝政が崩壊し、ロシア臨時政府が樹立されると、封印列車で帰国したレーニンはボリシェヴィキの指導者として反臨時政府運動を展開し、十月革命によって体制を転覆させ、自身が首班となるソビエト政権を樹立した。

レーニンのソビエト政権は社会主義的改革を実行する一方で、ブレスト=リトフスク条約を結んで第一次世界大戦から離脱した。1918年にはボリシェヴィキによる一党独裁体制を確立し、党名をロシア民主労働党から「ロシア共産党(ボリシェヴィキ)」へと改めた。また、秘密警察組織(チェーカー)によって指揮される赤色テロを開始し、反対派に対する大規模な弾圧を実行した。1919年には世界革命を推進するためにコミンテルンを創設し、十月革命後のロシア内戦でソビエト軍(赤軍)が白軍に勝利したのちには、隣国ポーランドに侵攻し、革命の全ヨーロッパへの波及を試みたが失敗した。1921年には大飢饉に端を発する反ボリシェヴィキ的な騒乱拡大への対応として、従来の戦時共産主義から新経済政策(ネップ)への転換を進めた。

1921年頃からレーニンの健康状態は著しく悪化し、静養のためクレムリンを離れることが多くなった。病状が悪化する中、ソビエト連邦(ソ連)の形成には構想の段階から関与し、1922年12月にソ連が建国されると、その行政府の初代議長に選出された。一方で、この頃にはグルジア問題などを巡ってスターリンとの対立を深め、口述筆記させた文書の中で党書記長からスターリンを解任するよう求めた。1923年に3度目の脳卒中を起こすと、意思疎通に困難をきたす状態に陥った。1924年1月21日、ゴールキの邸宅で意識不明の状態となり、そのまま死去した。遺体は防腐処理を施された上で、赤の広場に建てられた霊廟(レーニン廟)にて一般公開された。
出生から青年期まで
出自ウリヤノフ家の家族写真。下段右端がレーニン

レーニンの父イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフは元農奴の家系の出身であり、イリヤの父親の民族性は不明瞭なものの[注釈 2]、母親はカルムイク人ロシア人の血を半分ずつ引いていた[3]。イリヤは下層階級の出自であったが、カザン帝国大学で物理学と数学を学んだのち[注釈 3]ペンザの貴族学校で教職を得て、中流階級の身分を手にした[5]。1863年の半ば、イリヤはのちにレーニンの母となるマリア・アレクサンドロヴナ・ブランクと結婚した[6]。マリアは裕福なドイツ・スウェーデン系の母と、ユダヤ系ロシア人の父との間に生まれ、彼女の父はキリスト教に改宗し、医師として働いていた[7]。結婚後、イリヤは教育者として出世を続け、やがてシンビルスク地方の公立学校の視学官となり、帝国政府による近代化計画の一環として450校以上の学校設立を監督した。1882年1月には教育分野における功績が認められて聖ウラジーミル勲章(英語版)を授与され、世襲貴族の地位を得た[8][9]
生い立ち当時3歳のウラジーミル・ウリヤノフ(左)と妹のオルガ(右)(1874年)

1870年4月22日(ロシア暦の4月10日[1])、レーニンはロシア帝国のシンビルスクでウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフとして生まれ、生後6日で洗礼を受けた[10]。ウラジーミルは両親の3番目の子であり、上には姉のアンナ(1864年生)と兄のアレクサンドル(1866年生)が、下にはオルガ(1871年生)とドミトリー(1874年生)、マリア(1878年生)がおり、他に生後すぐ早世した2人の姉と弟がいた[11]。父のイリヤがロシア正教会の敬虔な信者であった一方で、母のマリアはルーテル教会の信徒として育てられたもののキリスト教的信仰にはほとんど関心がなく、彼女の宗教観は子供たちにも影響を与えた[12]。両親はともに君主制主義者かつ自由保守主義者であり、ロシア皇帝アレクサンドル2世が実施した農奴解放令も熱心に支持しており[13]、子供たちをロシア人として育てた[14]。2人は政治的過激派を避けており、危険人物として帝国警察の監視下に置かれていたという記録も存在していない[13]。ウラジーミルは姉弟の中でも特に妹のオルガと親しく、彼女に対してはしばしば威張り散らしていた。当時の彼は極めて競争心が強く、気性の荒さを見せていたが、自分が犯した間違いについては認めることが多かった[15]。入学したシンビルスク古典中高等学校では非常に成績優秀であった一方、スポーツにも熱心であり、自由時間はほとんど屋外に出るかチェスを遊んで過ごした[16]
青年時代1887年のウラジーミル・ウリヤノフ


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