ウラジーミル・ナボコフ
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ロシアの政治家でクリミア地方政府の法相のウラジーミル・ドミトリエヴィチ・ナボコフとは異なります。

ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・ナボコフ
Владимир Владимирович Набоков

誕生 (1899-04-22) 1899年4月22日
ロシア帝国サンクトペテルブルク
死没1977年7月2日(1977-07-02)(78歳)
スイスモントルー
職業小説家詩人昆虫学者
国籍ロシア帝国→アメリカ合衆国
代表作『賜物』(1938年)
セバスチャン・ナイトの真実の生涯』(1941年)
ロリータ』(1955年)
青白い炎』(1962年)
アーダ』(1969年)
配偶者ヴェラ・ナボコフ
子供ドミトリー・ナボコフ(息子)
親族ウラジーミル・ドミトリエヴィチ・ナボコフ(父)
ウィキポータル 文学
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ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・ナボコフ(ロシア語:Владимир Владимирович Набоков 発音 [vl??d?im??r n??bok?f] ( 音声ファイル)ヴラヂーミル・ヴラヂーミラヴィチュ・ナボーカフ、英語:Vladimir Vladimirovich Nabokov [n??b??k?f, ?nab??k??f, -?k?f], 1899年4月22日ユリウス暦4月10日) - 1977年7月2日)は、帝政ロシアで生まれ、ヨーロッパアメリカで活動した作家詩人。少女に対する性愛を描いた小説『ロリータ』で世界的に有名になる。昆虫(鱗翅目)学者チェス・プロブレム作家でもある。アメリカ文学史上では、亡命文学の代表格の一人である。ウラジミールまたはヴラジーミル・ナボコフと表記されることもある。ナボコフが1917年まで暮らした生家。サンクトペテルスブルクのモルスカヤ通り47番地。1階がナボコフ博物館として公開されている。ロシア時代、避暑に毎年訪れた一家の別荘。初めての恋人タマラ(Valentina Shulgina)と会ったのもこの家。文化財として保存され、ナボコフ記念館として公開されている1961年から亡くなるまでモントルー・パレス(英語版)というホテルで暮らした。6階にナボコフの部屋がある。
経歴

ロシア帝国サンクトペテルブルクで貴族の家に長男として生まれた。50人の使用人に囲まれ、非常に裕福な環境で育った。ロシア革命後、1919年西欧へ亡命する。同年、トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)に入学、動物学やフランス語を専攻し、サッカーチームのゴールキーパーも務めた。1922年に大学卒業後、ロシア移民が多く住むベルリンに落ち着いていた家族と合流。同年、父親が暗殺される。文筆や教師などの仕事を始め、1925年に、同じくベルリンに亡命していたユダヤ系ロシア人のヴェラと結婚、1934年には息子ドミトリをもうけた。パリの生活を経て1940年に渡米、1945年にアメリカに帰化した。

ロシア時代より詩を書き始め、ベルリン、パリで「シーリン」の筆名でロシア語小説を発表、ロシア亡命文学界において高い評価を受ける。パリ時代の終わりから英語で小説の執筆を始める。渡米後はコーネル大学等でロシア文学・ヨーロッパ文学を講ずるかたわら、英語で創作活動を続ける。『ザ・ニューヨーカー』誌に小説『プニン』(英題: Pnin)を1953年11月28日号から断続的に掲載。『プニン』はナボコフの人生とも重なり、米国に亡命したロシア人教授の悲喜劇を書いたこの傑作は、ナボコフの名を米国で有名にした[注釈 1]1955年に小説『ロリータ』の出版により国際的に著名な作家となり、1959年にスイスモントルーに移住、生涯執筆活動に専念する。自作の英語作品のロシア語訳、ロシア語作品の英訳(共訳)にもたずさわった。1961年からレマン湖畔にある老舗高級ホテル「モントルー・パラス」に夫婦で暮らし、執筆の傍ら、蝶の採集やテニスにも多くの時間を割いた。

1962年には『ロリータ』がスタンリー・キューブリックの手により映画化され、自身の手で脚色を行う。スキャンダラスな内容のために作品は賛否両論だったものの大ヒットを記録し、自身もアカデミー脚色賞にノミネートされた。

鱗翅目研究者としては、ハーバード大学コーネル大学の研究所で、シジミチョウ分類学的研究を行っていた。ナボコフが集めた約4000の蝶の標本は、前述の大学のほか、アメリカ自然史博物館ローザンヌのスイス動物学博物館、サンクトペテルブルクのナボコフ博物館に寄贈されている[1]

また趣味でチェス・プロブレムを作成しており、『Poems and Problems』や『ディフェンス』などチェスに関連した作品を複数残している。一方でナボコフにとって音楽は、いらいらする音の連続にすぎず、音楽不能症(失音楽症)で前頭葉のある部分の結合が欠けているという[2]
家族

ウラジーミル・ドミトリエヴィチ・ナボコフはロシア時代、自由主義派の有力な政治家だったが、ベルリンに亡命後、政治集会で暗殺された。

弟セルゲイは1歳下で、同性愛と反ナチス的な言動を理由に強制収容所に送られ、ハンブルク近くの収容所で病死した[3]ヴェラ夫人と(1969年)

ヴェラ・ナボコフもユダヤ系の亡命ロシア人で、ベルリン時代に知り合い、1925年に結婚した。当時、ロシア貴族がユダヤ人と結婚するのは珍しかった。ヴェラも作家志望だったが、結婚後はナボコフの秘書役に徹した。ナボコフはすべての作品を彼女に献呈している。彼女は『青白い炎』をロシア語に翻訳した。ナボコフは青年時代から反ユダヤ主義を憎み、高校時代の親友の2人がユダヤ人だったなど、生涯にわたりユダヤ系の友人、知己が多く、晩年はロシア系ユダヤ人の複数の協会に寄付してもいた[3]。ナボコフの曽祖父がキリスト教に改宗したユダヤ人であったとする研究もある[3]

息子ドミトリー・ナボコフ1934年 - 2012年)も父の著作をロシア語から英語に、また英語からイタリア語に翻訳、父をめぐるエッセイなども著している。その他、オペラ歌手、登山家、レーシング・ドライバーとしても活躍した。
主な作品

代表作は『ロリータ』や『賜物』、『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』、『青白い炎』、自伝では『記憶よ、語れ』など。小説の他にも詩・戯曲・評伝など多方面で活躍した。

翻訳者としても1923年には『不思議の国のアリス』のロシア語訳『不思議の国のアーニャ』を、1964年には約15年かけ、プーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』の注釈付き英訳(本編の訳の2倍にもなる膨大な註釈)を、ボーリンゲン財団の援助で出版している。

文学的な仕掛けと含意、遊び心に富んだきわめて技巧的な作家という評価が世界的にも定着しており、その「難解」さと言語遊戯にあふれた作風にもかかわらず、(ロシア時代の作品の多くはナボコフによる英訳版からの重訳とはいえ)全ての作品が日本語訳されており、また直訳・重訳の差の問題などから複数の日本語訳書が存在する作品も少なくない。


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