ウラジミール・バレンティン
[Wikipedia|▼Menu]

ウラディミール・バレンティン
Wladimir Balentien
東京ヤクルトスワローズ時代
(2014年7月13日、明治神宮野球場にて)
基本情報
国籍 オランダ
出身地 アンティル自治領ウィレムスタット(現: キュラソー
生年月日 (1984-07-02) 1984年7月2日(39歳)
身長
体重185 cm
100 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手
プロ入り2000年 アマチュアFA
初出場MLB / 2007年9月4日
NPB / 2011年4月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


シアトル・マリナーズ (2007 - 2009)

シンシナティ・レッズ (2009)

東京ヤクルトスワローズ (2011 - 2019)

福岡ソフトバンクホークス (2020 - 2021)

サルティーヨ・サラペメーカーズ (2022)

派遣歴


カルデナレス・デ・ララ(スペイン語版) (2006, 2007)

ナベガンテス・デル・マガジャネス (2009)

ヒガンテス・デル・シバオ(英語版) (2022)

カニェロス・デ・ロス・モチス (2023 - )

国際大会
代表チーム オランダ
五輪2004年
WBC2013年2017年2023年
プレミア122015年
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ウラディミール・ラモン・バレンティン(Wladimir Ramon Balentien, 1984年7月2日 - )は、オランダ王国キュラソー島ウィレムスタット出身のプロ野球選手外野手)。右投右打。現在は、フリーエージェント(FA)。

2011年 - 2013年にかけてセ・リーグ史上2人目となる3年連続本塁打王獲得[注 1]。また、2013年にNPBのシーズン最多本塁打記録(60本)、シーズン最高長打率記録(.779)を樹立し、その記録保持者。
経歴
プロ入り前

初めて野球をしたのは5歳の頃で[1]、12歳で地元のリトルリーグのチームに入った。
プロ入りとマリナーズ時代シアトル・マリナーズ時代
(2009年6月10日)

2000年7月9日に、16歳でメジャーリーグ・ベースボールシアトル・マリナーズと契約[2]

2001年はルーキー級アリゾナリーグ・マリナーズに所属し、打率.206、本塁打0本、打点9に終わる[3]

2004年はシーズン途中にアテネオリンピック野球オランダ代表に選出された。シーズンではA級ウィスコンシン・ティンバーラトラーズで76試合に出場し、打率.277、15本塁打、46打点、10盗塁を記録した。8月にA+級インランド・エンパイア・シックスティシクサーズ(英語版)へ昇格し、10試合に出場した。

2005年は前年同様にA+級インランド・エンパイアでプレーし、自身初となるシーズン20本塁打以上となる25本塁打を記録した[3]

2006年は自身初めてオールスター・フューチャーズゲームに選出された。

2007年はオールスター・フューチャーズゲームに2年連続2度目の選出された。その時点で打率.328、20本塁打、66打点と好成績を残した。9月4日にメジャー初昇格を果し、同日のニューヨーク・ヤンキース戦でメジャーデビュー。8回に代打で打席に立ち左中間へ二塁打を放つ。9月26日のクリーブランド・インディアンス戦でメジャー初の本塁打を記録した[3]。僅か3試合の出場に終わるも、打率.667、1本塁打、4打点、出塁率.500と結果を残した。

2008年は開幕をマイナーリーグで迎えたが、ブラッド・ウィルカーソングレッグ・ノートンらのDFAに伴い4月30日にメジャー昇格。71試合で打率.202、7本塁打、24打点、出塁率.250を記録するも、79三振と出場試合数より多い三振数を喫した。

2009年は56試合に出場するも打率.213、4本塁打、13打点、出塁率.271にとどまり、7月25日にマイケル・ソーンダースの昇格に伴ってDFAとなり、ウェイバー公示された。
レッズ時代

2009年7月29日にロバート・マニエル(英語版)とのトレードシンシナティ・レッズに移籍した[4]。10月2日の対ピッツバーグ・パイレーツ戦が、ヤクルト入団前としては最後のメジャーリーグ出場試合となったが、この時に放った推定飛距離151メートルの本塁打は「メジャーでは二度と出ない」とも言われた[3]。2球団を渡り歩き、96試合の出場で打率.234、7本塁打、24打点、出塁率.305を記録した。

2010年は傘下のAAA級ルイビル・バッツで116試合に出場し、打率.282、25本塁打、78打点、12盗塁だった。オフの11月6日にマイナーリーグFAとなった。
ヤクルト時代

2010年11月18日に肩の強さと状況に応じられるチームバッティングが評価され(後述)、東京ヤクルトスワローズと2年契約(3年目は球団オプション)合意発表[5]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:254 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef