ウラジミール・ツヴォルキンVladimir Zworykin
ウラジミール・ツヴォルキン(1956年)
生誕Владимир Козьмич Зворыкин
(1888-07-17) 1888年7月17日(グレゴリオ暦7月29日)
ロシア帝国ヴラジーミル県ムーロム
死没 (1982-07-29) 1982年7月29日(94歳没)
アメリカ合衆国ニュージャージー州プリンストン
市民権 ロシア
アメリカ合衆国
教育サンクトペテルブルク国立工業大学
ウラジミール・K・ツヴォルキン(英: Vladimir K. Zworykin/露: Владимир К. Зворыкин、1888年7月17日〔グレゴリオ暦:1888年7月29日〕 - 1982年7月29日)は、ロシア系アメリカ人の発明家、技術者。ブラウン管および電子走査式撮像管を使った、完全電子化されたテレビの送受信システムの開発に取り組んだ、テレビ技術の先駆者のひとり。彼は1930年代初めごろからテレビの実用化に関連する様々な発明をしている(撮像管アイコノスコープ、赤外線撮像管、電子顕微鏡など)ため、テレビの「真の」発明者と呼ばれることもあるが、フィロ・ファーンズワースなど他の人物をそう呼ぶ場合もある。
ロシア語での発音は、ヴラジーミル・ズヴォルィーキンに近い。日本語資料ではツウォリキン[1]、ズウォリキン[2]、ズボリキン[3]と転写表記される場合がある。ミドルネームの「K」の出生名はコジミーチ( Козьмич/Koz'mich )であるが、のちにコズマ( Kosma )[1][3]を名乗った。 ツヴォルキンは1888年7月17日にロシア帝国のムーロムの豪商の家に生まれた。父親には休日以外滅多に会うことが無く、相対的に穏やかなしつけを受けた。サンクトペテルブルク国立工業大学
来歴
ツヴォルキンに関する多くの伝記によれば、彼は1912年に大学を卒業し、その後パリのポール・ランジュバンの下でX線の研究をしている。上述の新規に発見された記録によると、ツヴォルキンがロージングの下で研究していたのは1910年から1914年にかけてのことであった。どちらにしても、第一次世界大戦の間、ツヴォルキンはロシア軍の通信隊で働くことになり、その後 Russian Marconi に職を得た。そこでロシア軍向けの無線機器の試験を行った。ロシア革命後、ロージングはペトログラードで専門家として働いたが、ツヴォルキンは1918年から1919年ごろにロシアを離れ、アメリカ合衆国に移住する決意をした。Albert Abramson の書いた伝記によると、アメリカを最初に訪れたのが1918年末で、1919年末に再び訪れている。これは、おそらくパリでの住居を引き払うために一旦パリに戻り、1919年12月にアメリカに戻ったと考えられる。
アメリカに渡り、ウェスティングハウス・エレクトリックのピッツバーグにある研究所に職を得たツヴォルキンは、そこで再びテレビの実験に関わる機会を得た。