この項目では、ダマスクスの大モスクについて説明しています。アレッポのウマイヤ・モスクについては「アレッポの大モスク」をご覧ください。
ウマイヤ・モスク(アラビア語: ?????? ??????, ラテン文字転写: al-J?mi? al-Umaw?, 英: Umayyad Mosque)は、ダマスクスの旧市街にある世界で最も古いイスラーム教の礼拝所のひとつ[1][2]。ダマスクスのマスジド・ジャーミイ(金曜モスク、大モスク)である。
ダマスクスはエジプトとメソポタミアを繋ぐ通商路の途中にあって上古より都市が栄え、非常に古い時代から雷神ハダドを祀る神殿があった。4世紀末に神殿があった聖所の上にキリスト教の教会が建てられ、634年のムスリムによるダマスクス征服(英語版)後、8世紀前半に、教会がモスクに改装された。遅くとも6世紀には洗礼者ヨハネの首がここにあると信じられており、教会は洗礼者ヨハネに奉献されていた。ヨハネの首はモスク建設中に実際に発見されたとされる。
ムスリムの間には、世界の終末の日における救世主イエスの再臨がウマイヤ・モスクにおいて実現するという信仰がある。十字軍の侵略の時代においては各地のムスリムを繋ぐ結節点となり、サラーフッディーン・アイユービーの霊廟は、このモスクの北側の壁に付属した小さな庭の中にある。イブン・タイミーヤのジハード論は13世紀に当モスクにおいて説かれた。
立地1855年当時のダマスクス旧市街の地図。ウマイヤ・モスクは図中 "Great Mosque" と書かれている矩形部分に位置する(符号10の英国領事館のすぐ南)。ダマスクスへやってきた商人や巡礼は街の門をくぐると、街を東西に貫く「直線通り」の途中から北へ折れ、スークを抜けてウマイヤ・モスクにたどり着いた。詳細は「ダマスクスのユピテル神殿(英語版)」を参照
21世紀現在ウマイヤ・モスクが立地している場所は、鉄器時代から何らかの聖所であった可能性がある。ダマスクスがアラム人の都市国家連合(英語版)の首都であった頃には、雷雨の神ハダドを祀る広い神殿があった。ダマスクス国立博物館(英語版)には、アラム王ハザエル(英語版)治世下の日付が刻印されているハダド神殿の一部を構成した石が保管されている[3]。
紀元前2世紀にシリアを支配したセレウコス朝のアンティオコス4世エピファネスは、旺盛な建築欲を持つと共に支配地域のヘレニズム化に熱心に取り組んだ[4]。アンティオコスはハダドを、同様に天候を司る神格であるゼウスに習合した[4]。また、ハダド-ゼウス神殿から東に500メートルほどの場所にアゴラを設置し、神殿とアゴラを直線道路で連結した[5]。紀元前1世紀にシリアを支配下に置いたローマ人はこれを受け継ぎ、神殿を、ゼウスと同一視されるユピテルを祀るものとし[6]、その拡張をダマスクス生まれの建築家アポロドーロスに行わせた[7]。
ダマスクスのユピテル神殿は、エルサレムのユダヤ教徒の神殿に対応するものになることが意識されていた[8]。ローマ時代の前半を通じて、ダマスクスのユピテル神殿は頻繁に改修が行われ、そのたびに高位神官が富裕な市民から奉献を集め、改修後の儀式を行った[9]。神殿の東門は、セプティミウス・セウェルスの在位年間(193年?211年)に拡張された[10]。その後、紀元後4世紀ごろまでには、二重の壁が築かれる。外側の壁は広いエリアを町から画し、内側の壁はユピテルを祀る聖域本殿を外界から画した。大幅に拡張されたダマスクスのユピテル神殿は、ローマ帝国シリア属州の中で最も大きい神殿になった[11]。
その後、神殿は皇帝崇拝儀礼の中心になった[8]。ローマ帝国にキリスト教が浸透する4世紀も終わりごろの391年になると、ローマ皇帝テオドシウス1世がユピテル神殿をキリスト教のカテドラルに改装した。もっとも、この改装により直ちに洗礼者ヨハネへの奉献が行われたわけではなく、ダマスクスの司教座がここに置かれただけである[12]。ダマスクスの司教座教会は、アンティオキアの大司教座(英語版)の次席に位置づけられた[12]。洗礼者ヨハネへの奉献が行われたのは6世紀、ヨハネの首がこの地に埋められているという伝説が生まれて以後のことになる[13]。 634年にハーリド・ブン・ワリード率いるアラブ・イスラーム教徒軍
歴史
ウマイヤ・モスクの建設
706年にムアーウィヤから数えて6代目のウマイヤ朝カリフ、ワリード・ブン・アブドゥルマリク(ワリード1世)(在位705?715年)は、ダマスクスにモスクを建てる計画を立てた[15]。ここでいう「モスク」は屋根のあるイスラーム教の礼拝所のことである。簡易な礼拝所ムサッラー(英語版))なら、洗礼者ヨハネ聖堂の中庭の南東部に設けられてはいた。