ウベダとバエサのルネサンス様式の記念碑的建造物群
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ウベダとバエサの
ルネサンス様式の
記念碑的建造物群
スペイン

ウベダのエル・サルバドル聖堂(右奥)と
司教長オルテガの館(現パラドール
英名Renaissance Monumental Ensembles of Ubeda and Baeza
仏名Ensembles monumentaux Renaissance de Ubeda et Baeza
面積9 ha
(緩衝地域 176 ha)
登録区分文化遺産
登録基準(2), (4)
登録年2003年
公式サイト世界遺産センター(英語)
使用方法表示
ウベダのサンタ・マリア聖堂(右奥)とカルセル・デル・オビスポ

ウベダとバエサのルネサンス様式の記念碑的建造物群(ウベダとバエサのルネサンスようしきのきねんひてきけんぞうぶつぐん)は、スペインハエン県に属する「双子の都市」ウベダバエサの歴史地区群のうち、ルネサンス期に整えられた地区のみを対象とするUNESCO世界遺産リスト登録物件である。
歴史

ウベダとバエサは約8 km離れた都市で[1]、双子[2]や従兄弟[1]に例えられている。ともに8世紀にイスラーム勢力の支配下に置かれていたが、バエサが1227年[3]、ウベダが1234年に[4]、それぞれキリスト教徒によって奪還された。

15世紀から16世紀にかけては一帯のオリーブ生産などの発展によって繁栄し[5]、この時期にルネサンス様式の建造物群が建てられた。ただし、互いの建造物については、ウベダに上流階級の美しい建造物群が目立つのに対し、バエサは公共性のある建物が目立つという違いがある[2][6]。それらの建築に携わった中心的な建築家がアンドレス・デ・バンデルビラ(スペイン語版)である[7]

オリーブ畑は今もウベダ周辺に広がっているが[1]、17世紀以降、ウベダとバエサの経済は下降線を辿った[5]
登録経緯

ウベダとバエサが最初に審議されたのは1989年の第13回世界遺産委員会の場であった。推薦名は「ウベダとバエサ」(Ubeda and Baeza) で、推薦範囲は歴史地区群全体であった[2]。このときに世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) は、スペイン国内に限ってもウベダとバエサに優越する歴史地区がいくつも存在するという理由で「不登録」を勧告した[2]。この判断は委員会審議の場でも覆らず、「不登録」と決議された。

一度「不登録」と決議された物件は同じ理由で再推薦することは認められていない。そこでスペイン当局は、ルネサンス様式の建築物が残る地区だけに限定した推薦書を1999年6月30日に提出した[注釈 1]。これに対してICOMOSは、イタリアのいくつかの歴史地区との差異を見出せないという理由から、再び「不登録」を勧告した[2]。このときは、スペイン当局が取り下げている。

スペイン当局はさらに推薦理由を練り直した推薦書を2002年1月25日に再提出した。このときの推薦名は「ウベダとバエサ : 都市の二重性と文化の統一性」(Ubeda-Baeza: Urban duality, cultural unity) で[8]、ウベダとバエサという別々の都市が、あたかも双子のように同質的な発展を遂げ、しかも、そこでのルネサンス様式建築の導入例はスペイン国内では初期に属するものであり、なおかつそれが新世界における植民都市の設計にも影響を及ぼした点が強調されていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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