ウッチャンナンチャン
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この項目では、お笑いコンビについて説明しています。バラエティ番組については「ウッチャンナンチャン (テレビ番組)」をご覧ください。

ウッチャンナンチャン
メンバー内村光良
南原清隆
別名ウンナン
UN
結成年1984年
事務所マセキ芸能社
活動時期1984年 -
師匠内海桂子好江
出身お笑いスター誕生!!
出会い横浜放送映画専門学院
旧コンビ名おあずけブラザーズ
ウッちゃんナンちゃん
芸種コント
ネタ作成者両者
過去の代表番組ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!
ウッチャンナンチャンのウリナリ!!
ウンナンの気分は上々。
笑う犬シリーズ など
同期出川哲朗
ダチョウ倶楽部
130R
今田耕司など
公式サイト公式プロフィール
受賞歴
1986年 お笑いスター誕生!! 第7回オープントーナメントサバイバルシリーズ 優勝
1988年 第26回ゴールデン・アロー賞 芸能賞新人賞
1990年 平成元年度第6回浅草芸能大賞 新人賞
1992年 第16回日本アカデミー賞 新人俳優賞・話題賞(俳優として)
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ウッチャンナンチャンは、マセキ芸能社に所属する内村光良南原清隆からなる日本お笑いコンビ司会者。通称「ウンナン」「UN」。
メンバー詳細は「内村光良」および「南原清隆」を参照
内村 光良(うちむら てるよし、1964年〈昭和39年〉7月22日 - )(59歳)
熊本県人吉市出身。身長170 cm、体重66 kg。血液型はAB型。愛称、ウッチャン。
南原 清隆(なんばら きよたか、1965年〈昭和40年〉2月13日 - )(59歳)
香川県高松市出身。身長174 cm、体重63 kg。血液型はAB型。愛称、ナンチャン。
来歴・人物

1984年、横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学)での漫才の講義にて一緒に組んだのをきっかけとしてコンビ結成。講師を務めていた内海桂子好江の薦めで、マセキ芸能社所属となる。ウンナンを初めて見た好江は2人の才能を見抜き、「この2人を絶対に逃しちゃダメよ!」と涙ながら檄を飛ばしたという。また、好江の薦めで在学中から渋谷・見番寄席や、『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系)のオーディションに出演[1]。卒業後の1985年に同番組でテレビデビューを果たし、本格的な活動を始める。なお、その頃のコンビ名は「おあずけブラザーズ(おあずけシスターズをもじって命名)」であった[注 1]

ショートコントというジャンルを確立させた第一人者でもある[2](p67)。

1987年、専門学校の同期である出川哲朗入江雅人らと劇団SHA・LA・LAを結成、演劇役者としても活動。内村は脚本と演出も担当した。なお、長谷川初範が先輩であったことをラジオ等でネタにしていた。

1988年に放送を開始したフジテレビの深夜番組『夢で逢えたら』で知名度が上昇、1990年代にはとんねるずダウンタウンに続き、「お笑い第三世代」として若年層を中心に多大なる人気を獲得。

1989年から1995年まで『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)のパーソナリティも担当した。

1990年にフジテレビ系列『とんねるずのみなさんのおかげです』の休止に伴い、後番組のメインとして2人が抜擢され『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』がスタート。『夢で逢えたら』のテイストを下地にゲストを交えて作りこんだコントを演じ、再び人気を博す。『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』が半年間の放送を終了、時間帯を土曜夜8時に改め『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』として再出発。時事ネタや人気ドラマ、ミュージシャンを題材としたパロディーコントで高視聴率を得た。

また、『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』(日本テレビ系列)は、当時の日本テレビのバラエティー黄金期を支えた中心的な番組の1つで、番組の全盛期である1996年?1999年まではほとんどの回で視聴率が20%を超えていた時期もあった[注 2]。『ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャーこれができたら100万円!!』(テレビ朝日系列)、『ウンナンの気分は上々。』(TBS)、『笑う犬の冒険』(フジテレビ)など民放各局で人気番組を生み出し、一躍1990年代を代表するコンビとなる。

結成10年目となった1995年頃から、お互いの話し合いにより単独での活動も始めるようになる[3]。近年はコンビでのテレビ出演は限りなく減少傾向にあり、2022年現在はコンビ名義でのレギュラー番組は存在しておらずコンビでの仕事は単発特別番組の司会やトークライブなど、ごく僅かに限られている[注 3]。内村はゴールデンタイムの番組、南原は昼の帯番組を中心にMCを担う機会が増えている。またタレント活動以外でも内村は映画制作、南原は現代狂言やスポーツキャスターに自身のブランドでの味噌作りなど、2人とも幅広い分野でソロ活動を行なっている。
芸風
コント

若手の頃は当時普及し始めたコンビニエンスストアレンタルビデオショップ、おたくなど80年代後半の若者の生活を中心に据えたコントを得意とし、「都会派コント(シティ派コント)」と評された。そのような評価について当時のメンバーは「俺たち田舎出身なのに(内村は熊本県、南原は香川県出身)」と戸惑っていたが、「田舎出身だからこそ、都会の若者の様子を客観的に観察できた」と自己分析している。

ネタ作りの際は、内村が自分のやるギャグだけ書いて南原の台詞のみ適当(「ああ」「うん」など)にしておき、稽古の時に南原が台詞を作りながら面白い部分を拾い上げていき徐々に一つのネタにしていくという手法だった。またウンナンがコントや番組で披露したギャグは、ほとんどが劇団で一緒だった入江の考えたギャグをパクっていたと暴露したことがある。その場には出川も同席していたが内村曰く「哲ちゃんのギャグは面白くなかったからパクらなかった」とボケており、実際テレビでは出川の口癖「ヤバイよ」「チェン(出川だけが使っている内村のあだ名)」をモノマネしている。

なお、漫才については「難しくて出来ない」らしく、若手の頃は漫才番組への出演時にコントのネタを漫才に置き換え(所謂コント漫才)披露していた。また、南原はかつてM-1グランプリの審査員を務めていた[注 4]
「ショートコント」の確立

新人時代は7分?10分間程度という長尺のコントを演じていたが、ラ・ママ新人コント大会などで交流があったジャドーズの影響で「短めのコントを連発する」スタイルのネタを多く作り上げた。そのネタ中では、それぞれ冒頭に「(ショート)コント、○○」と称してからネタに入るスタイルを用いていた。そしてウンナンはネタと共に人気を獲得、「ショートコント」というネタのフォーマットは後の芸人にも甚大な影響を与えた[5]

「短いネタを連発する」という意味でショートコントの源流は上記のジャドーズや、パート2の『4コマ漫才』に見られるという評価もある[6]が、渡辺正行は「ショートコント」というフォーマットを名称と共に一般的に認知させたのはウンナンであると評している[2](p67)[7][8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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