ウッズ・ロジャーズ
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Woodes Rogers
息子からニュープロビデンス島の地図を受け取るロジャーズ(右)。ウィリアム・ホガース作(1729年)。

英領バハマ総督
任期
1718年1月6日 ? 1721年6月
任命者ジョージ1世
前任者なし(新設)
後任者George Phenney
任期
1728年10月22日 ? 1732年7月15日
任命者ジョージ2世
前任者George Phenney
後任者Richard Thompson (acting governor)

個人情報
生誕1679年
(presumed) ドーセットイングランド王国
死没1732年7月15日 (53歳)
ナッソーバハマ
墓地ナッソー(バハマ)
子供3

ウッズ・ロジャーズ(Woodes Rogers、1679年 - 1732年7月15日)は、イギリスイングランド王国)の私掠船の船長、後に初代バハマ総督(英語版)[1]ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』に影響を与えたと考えられているアレキサンダー・セルカークの救助者であり、バハマ総督として黒髭らが君臨したナッソー海賊共和国を制圧したことでも知られる。

ロジャーズは裕福な船乗りの家の生まれで、プールブリストルで育ち、その後、ブリストルの船長の下で見習い水夫として働き始める。父親は多くの船を所有していたが、ロジャーズが20代半ばの頃に亡くなり、家業の海運業から離れた。1707年、スペイン継承戦争に伴うイギリス側の私掠船の船長だったウィリアム・ダンピアと知り合う。そして、ロジャーズは2隻の武装船「デューク号」と「ダッチェス号」(それぞれ公爵と公爵夫人の意)からなる船隊を率いて出発した。3年間でロジャーズとその部下たちは、太平洋上でいくつかの船を拿捕し、途中、1709年2月1日にファン・フェルナンデス諸島でセルカークを発見し、救助した。1711年10月に世界一周を成し遂げてイギリスに帰国を果たし、これは船や仲間の大半も維持しており、出資者には出資額の2倍の利益を出すなど、この航海は成功を収めた。また、出版されたセルカークの救助などを記した航海の記録は人気を博し、国民的英雄となった。しかし、太平洋での戦いにおいて弟が戦死し、自身も深手を負い、さらにはイギリス東インド会社や、帰国時の利益の分配で揉めた部下たちから訴訟を起こされ、最終的には破産を余儀なくされてしまった。

その後、海賊ハンターとして再起を図り、1718年、ジョージ1世より、当時カリブの海賊たちの拠点であったナッソーの奪還の使命を帯びて初代バハマ総督に任命された。「王の恩赦」によるアメと軍事力のムチを用いて、かつて黒髭のボスで有力な海賊船長であったベンジャミン・ホーニゴールドらを指揮下に治め、海賊共和国の壊滅を果たした。四国同盟戦争に端を発するスペイン軍による侵攻の危機にも見舞われたが無事にバハマを防衛する。しかし、これら防衛予算で財政問題を起こし、イギリスに帰国した折には提督解任の上に、借金を理由に投獄された。キャプテン・チャールズ・ジョンソンによる『海賊史』によって再び国民的英雄として脚光を浴び、1728年ジョージ2世よりバハマ総督への再任を受けた。その任期中の1732年、健康を害して任地のナッソーにて亡くなった。53歳没。
前半生

ウッズ・ロジャーズは、商船長として成功したウッズ・ロジャーズ(この父の名の綴りはWoods)の長男であり、跡取りであった。多くの船の所有権を有していた父は、1年のうち9ヶ月をニューファンドランド島の漁船団で過ごして留守にしており、ロジャーズは幼少期をイギリスのプールで過ごして、その地元の学校に通っていたものと推測される[2]。1690年から1696年の間に一家は、ブリストルに移住した。1697年11月、ロジャーズはブリストルの海商ジョン・イーマンズに見習い水夫として弟子入りし、船乗りの技術を学んだ。この時、ロジャーズは18歳であり、これは7年を要する見習い水夫となる年齢としてはいささか年長であった。

ロジャーズの伝記作家であるブライアン・リトルは、この来歴はブリストルの海事社会の一員になるため方法であり、ロジャーズが街の自由民(英語版)、すなわち投票権を持つ市民になるのを可能にしたのではないかと示唆している。リトルはまた、ロジャーズがニューファンドランドの船団のイーマンズの船で海事経験を積んだ可能性も示唆している[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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