ウダイ・サッダーム・フセイン
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ウダイ・サッダーム・フセイン

ウダイ・サッダーム・フセイン・アッ=ティクリーティー(アラビア語:??? ???? ???? 、Uday Saddam Hussein、1964年6月18日 - 2003年7月22日)は、イラク元大統領サッダーム・フセインとその最初の妻サージダ・ハイラッラーの長男。クサイの兄。新聞「アル=バービル」、テレビ局「シャバーブTV」、ラジオ局「ボイス・オブ・イラク」といった独自のメディアを設立、自ら経営していた。ニコラエ・チャウシェスクの次男ニク・チャウシェスクとはスイスやモナコで度々会うなど親しくした[1][2]。以前は、サッダームの後継者と目されていた。

イラク代表のサッカー選手に対する激しい拷問やイラン等との密輸等数々の悪名で知られる。
生い立ち

ウダイは、サッダームの長男として生まれてから、両親に甘やかされて育てられたと言われ、それが後の歪んだ人格に大きく影響したと言われる。これはサッダーム自身が継父から体罰などの厳しい教育を受けたためで、「自分の子には厳しいしつけはしたくない」という親心からだったといわれる。

高校は、弟と共に、父の母校で、かつて母が統括していたハールフ高校に通った。当時の同級生の回想によるとウダイは騒々しく、乱暴な性格で手に負えない生徒だった。また、しばしば実弾入りの弾帯を巻いて登校していたという。車に夢中だったらしく、気に入った生徒の父母の車を見つけると護衛に命じて奪い取ったりした。ウダイが足を骨折した時にはクラスごと1階に引っ越したと言われる。このころには、葉巻や“女性”にも手を出していた。そんなウダイの当時の夢は、イラクが核兵器保有国となるために核物理学者になることだったという。そして物理学を学ぶために、アメリカの大学に留学するはずであったが、1980年にイラン・イラク戦争が開戦したため、夢は断たれた。

1984年、ウダイはバグダード工科大学を首席で卒業する。話によれば、ウダイに高得点を付けない教師は報復として拷問を受けたり、解雇されたりしたという。後にウダイは政治学の博士号を授与された。

ウダイは、前々からスポーツに関心を示し、自ら「アル=バアス・アッ=リヤーズィー」(スポーツ復興の意)というスポーツ雑誌を発行していた。とりわけサッカーに興味があり、イラン・イラク戦争中に自ら「アッ=ラシード」というサッカークラブを創設した。このクラブでは、高い報酬や装備、食事、兵役免除などの特典があった。アッ=ラシードの選手は、前線では無く、バグダード周辺警備が任務の共和国防衛隊の特別部隊に配属された。また、イラク各地のサッカークラブの優秀な選手を引き抜いた事も国民を怒らせた。

イラン・イラク戦争中、サッダームの命令で一兵士としてイラク陸軍に入隊したが、軍当局の計らいで、危険な前線からは遠ざけられ、ほとんど軍の任務には参加しなかった。ウダイが前線に行くところ必ず、イラク軍参謀総長アブドゥルジャッバール・シャンシャール大将が同行した。ある時、サッダームとウダイが、イラン軍との最前線に現れた。サッダームはウダイにイラン軍を攻撃せよと命じ、シャンシャール大将の説得も空しくウダイは戦闘ヘリで飛び立ち、イラン軍とおぼしき一群を攻撃した。後に判明したところでは、ウダイがミサイルで攻撃した一群はイラン軍では無く、味方であるはずのイラク軍の部隊であった。

そのような失態は伏せられ、バアス党プロパガンダ機関は、ウダイが前線で勇敢に戦い、イラン軍を撃退したという旨の写真、記事を発表し続けた。

1986年、サッダームはウダイを政界進出と青年層の掌握、スポーツ外交を通じて、後継者として世界に認知させるために、青年省の傘下にある「イラク・オリンピック委員会」の会長に任命した。ウダイは翌年に青年省を廃省し、イラク・オリンピック委員会が同省の権限を引き継いだ。巨大な権力と地位の足がかりを手に入れた。
殺人

1988年8月、エジプトホスニー・ムバーラク大統領夫人スーザーン・ムバーラクがイラクを訪問。スーザーンとサージダ・ハイラッラーは意気投合し、二人はこの夜、迎賓館で眠りについた。迎賓館のすぐ近くには、豪華なゲストハウスがあり、そこではサッダームの信任厚い側近のカーミル・ハンナ・ジョジョが仲間と共にイラン・イラク戦争終結を祝う宴会を開いていた。ウダイは別のゲストハウスに住んでいたが、サージダとスーザーンが宴会での大音量の音楽と、酔った勢いで銃を空に向けて発砲した音で起きてしまうと、護衛の一人に静かにするようにと伝令させたが、宴会の騒ぎは収まらず、個人秘書ザファール・ムハンマド・ジャービルや護衛と共に騒ぎを止めに出かけた。

会場に付くや否や、ウダイは酔いつぶれたハンナと口論になり、手に持っていた象牙のステッキで殴りつけた。ハンナは床に倒れたが、ウダイは酔った勢いで倒れたのだと思い込んでいたという。翌朝、サッダームがウダイに電話をかけ、ハンナが死亡したことを告げた。この時、サッダームは息子の狼藉とお気に入りの側近を殺されたことに怒り狂っており、放っておけば自らウダイを殺しかねない勢いだったという。異父弟のバルザーン・イブラーヒーム・ハサンの助言で、ひとまずウダイの処遇を裁判所に委ねることに同意した。

一方、ウダイは事件にショックを受け、睡眠薬を多量に服用して自殺を図ったが、一命を取り留めた。病院を退院すると、ウダイは自宅に篭城し、サッダームの警護官が彼を捕らえるために自宅を訪れると発砲してくるなど、まだ精神状態が不安定であり、サッダームは数日間放置した。海外に事件が報道されると、国内にも公表せざるをえなくなり、サッダームは事件の特別委員会を設置、委員会が有罪と判定すれば、ウダイを裁判所に引き渡すとした。

サッダームは、ウダイが悪い友人たちと付き合っていた故に、自分を見失い、狼藉を働いたに違いないと思い込んでいた。しかし、ウダイの友人らの聞き取りの結果、父であるサッダームさえ知らなかったウダイの堕落した生活が明らかになり、失望したとされる。

サッダームはウダイを全ての公的職から解任する。当時のウダイの肩書はイラク・オリンピック委員会会長、イラク・サッカー協会会長、サッダーム・フセイン科学技術大学学長だった。

ウダイは陸軍の刑務所に収監されることになった。だが、その刑務所長はウダイの母方の従兄弟で、ウダイは独房ではなく兵舎に収容され、数週間後には、バグダードのラドワニーヤ地区にあるサッダーム個人の屋敷に収監されるなど特別扱いであった。独房にはサッダームと母サージダが交代に泊まりに来て、一緒に眠ったという。わずか46日でウダイは釈放された。

ヨルダンフセイン1世国王が事件解決の仲介を行ったこともあり、サッダームはカーミル・ハンナの遺族を共和国宮殿に招待し、遺族がウダイの助命を求めるという和解のシーンを国営テレビで放送した。それらは、部族社会のイラクでは伝統的な和解方法に則ったものだった。またサッダームの親族や側近らも減刑を求めた。結局、ウダイが裁判所に引き渡されることは無かった。
ウダイの権力復帰

事件の二週間後、ウダイはイラクのジュネーヴ国連代表部一等書記官に任命され、スイスに任官した。叔父であるバルザーンがお目付け役となり、ウダイの野性を丸くしようと努力したが、無駄だった。ウダイは外交官としてスイスに滞在するための滞在許可を申請したが、その申請が審議されている最中にジュネーヴのレストランで店側とトラブルを起こし、ナイフを振りかざして、警官と口論となったのである。スイス滞在中も外交官らしい仕事を一切せず、毎夜のようにバーやナイトクラブなど、風俗街に入り浸りになっていた。結局、パリイスタンブールを転々とした後、イラクに帰国した。

湾岸戦争はウダイにとって予想外の出来事だったらしく、彼は戦争になるとは思っていなかったという。91年1月、イラク軍占領下のクウェートを訪問中、イラクがイスラエル弾道ミサイルで攻撃したというニュースが飛び込んでくると、ウダイはイスラエルの報復攻撃を恐れて狼狽し、急いでバグダードに引き返した。その途中、ウダイの乗った車列が多国籍軍の爆撃を受けたが、本人は難を逃れた。

湾岸戦争終結後に南部シーア派住民による反政府蜂起が起きた際には、意外にも「シーア派の人間を殺す気にはなれない」と言い、南部に行くことを拒否した。

イラクが国連による経済制裁を受ける中、ウダイは義兄弟のフセイン・カーミル・ハサンと共に「アル=アミール社」を設立し、かつての敵国イランと食料や石油密輸、兵器売買などの密貿易で私腹を肥やした。例えば、国連からの人道支援物資を闇市に横流ししたり、日本から送られた児童用ミルクの荷札を張り替えて売り飛ばした。このことは、その後、米軍がバグダードを制圧した際に、ウダイが経営する企業の倉庫から大量の人道支援用の粉ミルクが発見されたことから明らかになっている。また、キプロスを経由して密輸タバコも売っていた。

このことを聞きつけたサッダームにより、同社は解散させられたが、ウダイはすでにイランだけでは無く、ヨルダンシリアトルコなどにも密輸ルートを独自に確保していた。


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