ウズン・ハサン
[Wikipedia|▼Menu]

ウズン・ハサン
????? ???
Uzun ?asan
白羊朝スルターン

在位1453年 - 1478年

全名ウズン・ハサン・ビン・アリ・ビン・カラ・ヨルク・オスマン
出生1423年
白羊朝ディヤルバクル
死去1478年1月6日
白羊朝タブリーズ
配偶者デスピナ・ハトゥン(ヨハネス4世の娘)
子女ムハンマド
ハリール
マクスード
ヤアクーブ
ユースフ
アーラム・シャオ(イスマーイール1世の母)
家名バユンドゥル氏
王朝白羊朝
父親アリー・ベグ
母親サライ・ハトゥン
宗教イスラム教スンナ派
テンプレートを表示

ウズン・ハサン(ペルシア語 : ????? ??? Uzun ?asan、1423年 - 1478年1月6日)は、白羊朝スルターン(在位 : 1453年 - 1478年)。現在のイラン西部、イラクトルコ東部、アゼルバイジャンアルメニアを統治した。白羊朝の英主として有名である。本名はアブー・ナスル・ハサン・ベグ(Ab? Na?r ?asan Beg)であり、トルコ語で「背の高い」を意味する「ウズン(Uzun)」の形容詞を付けた名前で呼ばれる[1][2]
生涯

ティムールがウズン・ハサンの祖父であるカラ・ユルク・オスマンを現在のトルコの都市であるディヤルバクルの統治者として任命した。その際に、エルズィンジャンマルディンシャンルウルファスィヴァスもカラ・ユルク・オスマンが統治することとなった。

そういった環境の中で育ったウズン・ハサンは、1453年に兄ジャハーンギールとの争いに勝利して白羊朝の君主となる。アナトリア北部のトレビゾンド皇帝ヨハネス4世の娘を娶り、敵対する黒羊朝には表面上従属していた[3]

1461年に同盟国であるトレビゾンド帝国がオスマン帝国メフメト2世の攻撃を受けると、ウズン・ハサンは母のサライ・ハトゥンを外交官としてオスマン軍に派遣し、オスマンとの不戦条約の締結を申し出た[4]。トレビゾンドへの援軍の派遣の禁止、オスマン軍の遠征にサライ・ハトゥンが帯同することを条件として、2国の間に停戦が成立する[4]。こうして白羊朝の支援を絶ったうえで、メフメト2世は同年にトレビゾンド帝国を滅亡させた。

一方、黒羊朝の君主であるジャハーン・シャーは白羊朝の急速な勢力の拡大を警戒し、1467年にウズン・ハサン討伐の遠征を開始した。ウズン・ハサンはムシュの平野で野営中のジャハーン・シャーに奇襲をかけ、ジャハーン・シャーを殺害する[3]。ジャハーン・シャー死後、2年に満たない期間にウズン・ハサンは黒羊朝の領土を併合した。1469年には黒羊朝から助けを求められて進軍したティムール朝の君主アブー・サイードを捕殺し、2人の君主に勝利したウズン・ハサンはイラン高原西部を支配下に収めた。

しかし、アナトリアに残るベイリク国家のカラマン侯国を支援していたことから、オスマン帝国との衝突は回避できないものとなっていた[5]。ウズン・ハサンは、ヴェネツィア共和国とオスマン帝国との挟撃を企図した。1472年にヴェネツィアは白羊朝への大砲と火薬の供給を約束するが、オスマン軍によって武器の輸送は阻まれる[6]1473年、エルズィンシャン近郊で、オスマン帝国軍と白羊朝軍は衝突する(オトゥルクベリの戦い(英語版))[5]。しかし、オスマン軍は、既に火砲を持っていたことから、白羊朝軍を圧倒し、アナトリアはこれ以後、オスマン帝国の領土に組み込まれることとなった。

オトゥルクベリの戦いの後の講和ではユーフラテス川が白羊朝とオスマン帝国の国境と定められ、白羊朝が喪失した領土は少なかった[7]。しかし、ウズン・ハサンの権威は低下し、彼の兄弟や息子がたびたび反乱を起こした[7]

1478年、ウズン・ハサンは首都タブリーズで病没した[1]。以降、白羊朝は衰退へ向かった。

トルクメニスタンの首都アシガバートにあるトルクメニスタン独立記念塔には、ウズン・ハサンの彫像がある。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:19 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef