ウズベキスタンの歴史
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ヨーロッパからアラビア半島ソマリアエジプトペルシアインドジャワベトナムを通って中国まで伸びるシルクロード。内陸国のウズベキスタンにとって、古代から中世にかけて非常に重要な役割を果たした。

本項目では、ウズベキスタン歴史(ウズベキスタンのれきし)について記述する。
概要

紀元前1000年において、イラン系遊牧民中央アジアの川沿いに灌漑システムを構築し、ブハラサマルカンドといった都市を設立した。これらの場所はシルクロードとして知られる中国からヨーロッパまでを結ぶ交易道での貿易を通して極めて豊かな都市へと成長していった。紀元後7世紀、この貿易から非常に多くの利益を得ていたソグディアナのイラン人は自分たちの土地であるマー・ワラー・アンナフル(トランスオクシアナ)がこの地にイスラム教を広げようとするアラブ人により征服されるのを見た。アラブのアッバース朝政権のもと、8?9世紀はマワランナハルにおける学問と文化の黄金期を迎えた。テュルク人が北部からこの地方に侵入した際に、彼らは新たな国家を建設したが、彼らの多くは生来ペルシア化されていたで。テュルク人国家が数世代に渡りこの地方を支配した後、12世紀にマワランナハルはイランやホラズム地方、アラル海南部とともに統一された。13世紀前半、この国家はチンギス・カン率いるモンゴル帝国の侵入を受け、彼らの後継者が中央アジアのいくつかの地域においてペルシア語話者たちを追い出すこととなった。ティムールの統治の下、マー・ワラー・アンナフルは最後の文化的繁栄を始め、その富はサマルカンドへと集められた。ティムール朝が分裂を始めた後、1510年ごろにウズベク人の部族が中央アジア全域を征服した[1]

16世紀、ウズベク人は二つの強力はハン国、ブハラ・ハン国ヒヴァ・ハン国を建国した。この時代、シルクロードの貿易市場は海上ルートの繁栄に伴い衰退を始めていた。ハン国はイランとの戦争により孤立し、北部の遊牧民の襲撃により弱体化した。19世紀初め、3つのハン国、ブハラ・ハン国ヒヴァ・ハン国コーカンド・ハン国は短期間ながら復活の時を過ごした。しかし、19世紀半ばには中央アジア地域の商業的な潜在力、特に綿花に引きつけられたロシア帝国が中央アジアへと侵攻を開始した。1876年までにロシア帝国は3つのハン国すべて (従って現代のウズベキスタン全域) を保護国化し、ハンに対しては限られた自治権のみを与えた。19世紀後半、ウズベキスタン国内におけるロシア人の人口は増加しいくつかの工業化が行われた[1]

20世紀初め、中央アジアの知識層が現代のウズベキスタンに集まってジャディード運動を起こし、ロシア帝国による支配を打倒しようと提唱する運動を展開した。1916年、第一次世界大戦を戦うロシア軍への中央アジア人の徴兵義務が課されたことでウズベキスタンやその他の中央アジア各都市において暴動が起きた。1917年にロシア帝政が打倒され、ジャディード運動家は短期間ながらコーカンドに自治政府を樹立した。ボリシェヴィキ党がモスクワで権力を確立すると、ジャディード運動家はロシア共産主義の支持者とバスマチ蜂起として知られる広範囲の暴動の支持者に分裂した。暴動が1920年代前半に鎮圧されると、ファイズッラ・ホジャエフなどのウズベキスタンの共産主義指導者たちが国内で実権を握った。1924年、ソビエト連邦は現代のウズベキスタンとタジキスタンの一部を含むウズベク・ソビエト社会主義共和国 (ウズベクSSR) を建国した。タジキスタンは1929年に分離しタジク・ソビエト社会主義共和国を形成した。1920年代後半から1930年代前半にかけて、大規模な集団農場による農業が中央アジアに大規模飢饉をもたらした。1930年代後半、ホジャエフとウズベクSSR全体の指導者たちに対しソビエト連邦の指導者であったヨシフ・スターリンにより大粛清が実行され、ロシア人官僚が彼らに代わり実権を握った。1930年代に始まったウズベキスタンにおける政治的、経済的な生活のロシア化は1970年代まで続いた。第二次世界大戦中、戦争努力に対する「破壊」行為を抑制するためスターリンはコーカサスやクリミアから追放された危険人物をウズベキスタンへと送り込んだ[1]

ウズベキスタン全体を覆うモスクワ中央政府の制御はウズベク人の政党指導者シャラフ・ラシドフが多くの仲間や親戚を権力の要職につけたことで1970年代に弱まった。1980年代半ば、モスクワ中央政府はウズベキスタンの政党指導者を粛清することで再度政府の制御を試みた。しかし、これは綿花の単種栽培の強制やイスラム教の伝統に対する抑圧といったソビエト連邦の政策により長きに渡り押さえつけられてきたウズベク人の不満を噴出させ、この運動はウズベク人のナショナリズムを刺激した。1980年代後半、ミハイル・ゴルバチョフのもと自由解放的な雰囲気が政治的に対立するグループを生み出し、ウズベキスタンにおけるソビエト連邦の政策に反対する者が発言するようになった。(限られてはいたが) 1989年、一連の暴力的な民族抑制の結果、ウズベク人という民族において外部の者であったイスラム・カリモフを共産党第一書記として任命することとなった。ウズベキスタンのソビエト最高会議が1991年にソビエト連邦からの独立を仕方なく認めると、カリモフはウズベキスタン共和国の初代大統領となった[1]

1992年、ウズベキスタンは新たな憲法を採択したが、主な野党であったビルリクは禁止政党に指定され、一連のメディアに対する抑圧が始まった。1995年、国民投票によりカリモフの大統領の任期が1997年から2000年まで延長された。ウズベキスタン東部で1998年から1999年にかけて起きた一連の爆弾テロ事件により政府はイスラム過激派グループ、野党、少数派に対する取り締まりを強化した。2000年、カリモフは国際的な批判を受けた選挙において圧倒的な得票率で再選を果たした。この翌年、ウズベキスタンはタジキスタンとの国境全域に地雷を敷設し始めことで新たに深刻な地域問題を引き起こし、ウズベキスタンは地域の覇権を狙う国という悪いイメージを植え付けられることとなった。2000年代前半、隣国であるキルギスやトルクメニスタンに対しても同様の緊張関係へと発展した。2000年代半ば、相互防衛条約が実質的にロシアとウズベキスタンの二国間において強化された。


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