ウスマーン・イブン・アッファーン
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ウスマーン・イブン・アッファーン
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カリフ
カリフに選出されるウスマーン
在位644年 - 656年
戴冠式644年11月7日

出生574年/76年
マッカ(メッカ)もしくはターイフ[1]
死去656年6月17日
マディーナ(メディナ)
埋葬656年6月17日
マディーナのハッシュ・カウカブ
配偶者ルカイヤ
 ウンム・クルスーム
 ウンム・アムル・ビント・ジュンダブ
 ファーティマ・ビント・アル=ワリード
家名ウマイヤ家
父親アッファーン・イブン・アビー・アル=アース
母親ウルワ・ビント・クライズ
宗教イスラム教
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ウスマーン・イブン・アッファーン(アラビア語: ????? ??? ????? ?? ??? ????? ?? ????‎ ‘Uthm?n ibn ‘Aff?n b. Ab? al-‘?? b. Umayya, 574年?[2]/76年?[3] - 656年6月17日[4][5])は、イスラームの第3代正統カリフ(在位644年 - 656年)。マッカ(メッカ)のクライシュ族の支族であるウマイヤ家の出身。預言者ムハンマドの教友(サハーバ)で、ムハンマドの娘婿にあたる。

ムハンマドの妻ハディージャを除いた人間の中では、ウスマーンは世界で2番目にイスラームに入信した人物として数えられている[6]クルアーン(コーラン)の読誦に長けた人物として挙げられることが多い7人のムハンマドの直弟子には、ウスマーンも含まれている[7]651年頃、ウスマーンの主導によって、各地に異なるテキストが存在していたクルアーンの版が統一される[8]。656年にウスマーンは反乱を起こした兵士によって殺害(英語版)され、その死はイスラーム史上初めてカリフが同朋のイスラム教徒に殺害された事件として記憶された[9]。莫大な財産を有していたことから、ウスマーン・ガニー(「富めるウスマーン」の意)と呼ばれた[10]。また、ムハンマドの2人の娘と結婚していたことから、ズンヌーライン(?? ??????? Dh? al-N?rain、「二つの光の持ち主」)とも呼ばれる[11]
生涯
イスラームへの帰依前

ウマイヤ家の豪商アッファーン・イブン・アビー・アル=アースとアルワ(ウルワー)の子として、ウスマーンは生まれる。母のウルワは預言者ムハンマドの従姉妹にあたる[1]

ウスマーンの幼年期については、不明な点が多い[1]。子供のころに厳格な教育を受けたと思われ、マッカに住む若者の中でも特に読み書きに長けた人間に成長した[12]。幼少のウスマーンが他のアラブ人の子供に混ざって脱いだ服に石を集めて運ぶ遊びをしていた時、何者かに「服を着よ、肌を出してはならない」と言われてすぐに遊びを止めて服を着、以来人前で服を脱ぐことは無くなったという伝承が残る[12]

ウスマーンが20歳になった時、父のアッファーンが旅先で客死し、ウスマーンは父の遺した莫大な財産を相続した[10]。父と同様に交易に携わったウスマーンは事業で成功を収め、跡を継いだ数年後にはクライシュ族内でも有数の富豪になっていた[10]。商売で不正を行うことは無く、慎重かつ公正な姿勢を心掛けていた[13]
イスラームへの改宗

ウスマーンが改宗した理由について、彼がムハンマドの娘のルカイヤに恋焦がれていたためだと言われている[14][15]。ウスマーンは密かにルカイヤを想っていたがムハンマドに結婚を言い出す事が出来ず、ルカイヤはムハンマドの従兄弟ウトバの元に嫁いだ[16]。叔母のスウダーに相談したウスマーンは、やがてムハンマドに重大な出来事が起こり、その時にはルカイヤが自分の下に嫁ぐと言われ、叔母からの助言を心に留め置いた[16]。610年初頭、ウスマーンは旅先でマッカに預言者が現れた声を聞き、マッカに戻ったウスマーンは友人のアブー・バクルの勧めを受けてムハンマドに帰依した[17]

クライシュ族内ではウマイヤ家とムハンマドが属するハーシム家の対立が深まり、ウマイヤ家の人間はウスマーンがムハンマドの教えに入信したことを喜ばなかった[6]。ウマイヤ家の家長であるアル=ハカムはウスマーンを縛り付けて棄教を迫り、母のアルワと継父のウクバからも棄教を説得された[18]。それでもウスマーンの決意を翻すことはできず、アル=ハカムはウスマーンをクライシュ族の信仰に立ち返らせることを諦め、アルワはウスマーンを勘当した[19]。スウダーはウスマーンを擁護し、ウスマーンの異父妹であるウンム・クルスームは兄に続いてイスラームに改宗した[19]

ムハンマドがハーシム家の人間から迫害を加えられた時、ウトバ親子もムハンマドを責めて、ルカイヤはムハンマドの下に帰された[20]。また、ウスマーンはイスラームの教えを拒否する二人の妻と離婚した[20]。ウスマーンが離婚したことを知ったアブー・バクルは、ムハンマドにウスマーンとルカイヤの結婚を提案する。ムハンマドはクライシュ族の有力家系であるウマイヤ家の人間の改宗を喜び、ルカイヤをウスマーンの元に嫁がせて友好関係の継続を望んだ[2]

ウスマーンとルカイヤは幸福な結婚生活を送っていたがクライシュ族内でのイスラーム教徒への迫害は激しさを増し、ウスマーンはムハンマドと話し合った末、交易でつながりのあったエチオピアへの避難を決定した[21]615年[2]、ウスマーン夫妻は信徒を連れてエチオピアに移住する。


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