ウスマン・ダン・フォディオ
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ソコト帝国初代カリフ
在位1804年 - 1817年
出生1754年12月5日
ゴビール・スルタン国
ウスマン・ダン・フォディオ(Shaihu Usman dan Fodio、1754年12月5日[1][2][3] - 1817年4月20日)は、アフリカのナイジェリア北部に存在していたソコト帝国の建国者および初代カリフ。ハウサ語でシェイフ(導師)を意味する「シェフ」の名前で知られている。フラニ語(フルベ語)では、ウスマーヌ・ビー・フォードゥエと表記される[4]。ウスマンは西アフリカにおけるカリフとも見なされ、彼が建てた政権は「ソコト・カリフ国」とも呼ばれる[5]。 1755年にウスマンはハウサ諸王国(ハウサランド
生涯
ウスマンはクルアーン(コーラン)の講義に力を注ぎ、スーフィズム(神秘主義)に則った禁欲的な生活を送る[6]。同時にイスラームの教義に反したハウサ人支配者層を批判し、ハウサ人の支配下に置かれているフラニ人に課せられた重税の軽減を主張した。ウスマンの支持者はハウサランド全土で増え、ハウサ人の王たちはウスマンが説く教説と彼の影響力に脅威を覚えるようになる[6]。ゴビールの王バワは影響力を高めるウスマンに対し、集会、参加者がターバンやヒジャブ(ベール)といったイスラーム信仰を表す服装の着用を認めた[8]。
ウスマンはゴビールとザムファラの国境に位置するデゲルに宗教共同体を作り、イスラーム信仰に則った自治を敷いた[8]。バワの後継者であるナファタはウスマンの共同体の拡大を恐れて共同体を弾圧し、1797年/98年にゴビールでの宣教、ターバンとヒジャブの着用が禁止された。ナファタの子ユンファはウスマンと彼の支持者を宮廷に召喚して彼らを捕らえようとし、ウスマンの支持者がダゲル近辺を通過するゴビールの兵士を攻撃して彼らが伴っていたイスラーム勢力の捕虜を解放したため、両者の関係は緊迫する[8]。ウスマンはユンファからダゲルからの退去を命じられ[8]、1804年にウスマンと支持者たちはゴビールから脱出し、グドゥに移住した。ウスマンはデゲルからの移動を、預言者ムハンマドのヒジュラに例えた[2][9]。
1804年2月にウスマンは支持者によってアミール・アル=ムゥミニン(信仰の司令官、カリフ)に選出された[10]。ジハードにおいてウスマンはサルキン・ムスルミ(信仰の指導者)として神との仲介者との役割を果たし、戦闘は弟のアブドゥッラーヒと息子のムハンマド・ベロ(英語版)に委任していた[6]。