ウスティカ
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ウスティカ
Ustica
ウスティカ島
行政
イタリア
シチリア
県/大都市 パレルモ
CAP(郵便番号)90010
市外局番091
ISTATコード082075
識別コードL519
分離集落なし
隣接コムーネなし
地震分類zona 2 (sismicita media)
気候分類zona B, 717 GG
公式サイト ⇒リンク
人口
人口1,318 [1] 人 (2019-01-01)
人口密度162.9 人/km2
文化
住民の呼称usticesiまたはusticani
守護聖人聖バルトロメオ
(San Bartolomeo)
祝祭日8月24日
地理
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度43分 東経13度11分 / 北緯38.717度 東経13.183度 / 38.717; 13.183座標: 北緯38度43分 東経13度11分 / 北緯38.717度 東経13.183度 / 38.717; 13.183
標高49 (0 - 248) [2] m
面積8.09 [3] km2
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パレルモ県におけるコムーネの領域
ポータル イタリア
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ウスティカ(イタリア語: Ustica; シチリア語: Ustica)は、イタリア共和国シチリア自治州パレルモ県にある、人口約1,300人の基礎自治体コムーネ)。シチリア島北方のティレニア海に位置するウスティカ島をその領域とする。

ウスティカ島はシチリア島の中心都市パレルモの北約70kmに位置する離島で、政治犯の流刑地として利用された歴史もある。東方に位置するエオリア諸島と同様に火山性の島で、周辺の海域はイタリアで最初に指定された海洋自然保護区の一つである。海や洞窟などその自然景観は観光資源となっており、スキューバダイビングの名所としても知られる。パレルモとの間にはフェリーの定期航路が結ばれている。
地理ティレニア海上のウスティカ島の位置
位置・広がり

ウスティカ島(イタリア語: Isola di Ustica)は、シチリア島北方のティレニア海南部に位置する島である。パレルモの北北西68km、アリクーディ島エオリア諸島北西端)の西104kmに所在する[4]

島の面積は約8km2。島の長さは3.5km、幅は2.5kmの楕円状の島で、周囲の海岸線長は12kmである。
地勢

東方にあるエオリア諸島と同様に火山性の島であり、海底火山の爆発によって噴出した溶岩でできている。島の中央部には Punta Maggiore(244 m)、Guardia dei Turchi(238 m)があり、島を北東側と南西側に分けている。

島の海岸は岩場であり、砂浜はない。海岸に沿って多くの洞窟(海蝕洞)や岩礁がある。代表的な洞窟としては、緑の洞窟(grotta Verde)、青の洞窟(grotta Azzurra)、grotta della Pastizza、黄金の洞窟(grotta dell'Oro)、grotta delle Colonne などが挙げられる。岩礁としては、島の北西沖にスコーリョ・デル・メディコ(Scoglio del Medico)、北西海岸近くに Scoglio Colombara がある。

奥の岩が Scoglio Colombara

集落

ウスティカの主要な集落と港は、島の東部に位置する。

ウスティカの集落

歴史
先史・古代

最初期の住民は、エオリア諸島から渡ってきたと考えられている。少なくとも紀元前1500年頃からは、フェニキア人が暮らすようになった。

ファラリオーニ(Faraglioni)地区で1989年に始まった発掘調査により、紀元前14世紀から紀元前13世紀にかけての大きな集落の遺跡が見つかった。家々は石組みで作られ、集落は防壁に囲まれて要塞化されていた。

古代ギリシャ人は、この島を「納骨堂」を意味する「オステオーデス」(Οστε?δε? / Osteodes)という名で呼んだ。これは紀元前4世紀カルタゴに対して反乱を起こし、この島に配流されて餓死した数千人の人々を記念するものであった。ローマ人たちは、島の黒い岩に因み、ラテン語で「焼けたもの」を意味する言葉(da ustum)をとって、島を「ウスティカ」(Ustica)と呼んだ。

島からは、古代のキリスト教徒の村も発掘されており、海面下に没した墓地やトンネルの遺構も見つかっている。多くの沈没船が考古学的調査の対象となっており、フェニキア人、ギリシャ人、ローマ人、カルタゴ人など、地中海を行きかった様々な民族の痕跡を見ることができる。島はその後長らく、イスラム教徒サラセン人)の海賊の拠点としても用いられた。
中世

6世紀には、ベネディクト会修道士たちがこの島に移住した。しかし、ヨーロッパ世界とアラブ世界との間の戦乱により、ほどなく修道士たちは島を離れることを余儀なくされた。中世を通してこの島への植民が試みられたが、海賊の跋扈など、周辺海域の緊迫のために定住は妨げられた。
近代・現代
島への入植と米国への移民Torre dello Spalmatore

1759年ブルボン家シチリア王フェルディナンド3世(のちの両シチリア王フェルディナンド1世)は、島への入植を進めた。シチリアの沿岸哨戒網の一環となる2つの望楼(Torre Santa Maria と Torre Spalmatore)を建設したほか、島の東部のカーラ・サンタ・マリア(Cala Santa Maria)に貯水施設や家屋を建設し、島の中心となる集落を建設した。入植者はパレルモトラーパニ、エオリア諸島から集まり、また100人の兵士も配置された。とくに、エオリア諸島の主島リーパリ島からは約90名の住民が移住した。ウスティカの守護聖人聖バルトロメオであるが、これはリーパリの守護聖人が持ち込まれたものである。

19世紀末から20世紀初頭にかけて、島の人口はあまりにも多くなったために、数百の家族がアメリカ合衆国に移民した。彼らの多くが移り住んだのはニューオーリンズとその周辺であった。21世紀初頭の今日もニューオーリンズを中心としてウスティカ移民の子孫が数千人暮らしており、ウスティカとの強い絆を保っている。そのほか、サンノゼサンフランシスコニューヨークマサチューセッツ州などに移民した人々もいる。
流刑の島


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