ウスタシュ2世_(ブローニュ伯)
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バイユーのタペストリー(部分)

ウスタシュ2世(フランス語: Eustache II de Boulogne、1015年ごろ - 1087年ごろ)は、11世紀フランス貴族。ブローニュ伯(英語版)、ランス伯。長髭のウスタシュ(フランス語: Eustache aux grenons、古フランス語: Eustache as gernuns、ラテン語: Eustachius Gernobadatus)という異名があった。
生涯

ウスタシュ2世は、1015年から1022年ごろ[1]、あるいは1020年から1025年ごろに生まれた[2]。父はブローニュ伯ウスタシュ1世(英語版)、母はルヴァン伯(英語版)ランベール1世(英語版)の娘マティルドであった[1]。弟にはパリ司教ゴドフロワ、ランス伯ランベール2世(英語版)がいた[2]。ブローニュ伯はフランドル伯封臣だが、半ば独立した地位にあった[3]

ウスタシュ2世は父方と母方の双方を通じてカール大帝の血を引いており、イングランドの年代記作家オルデリクス・ヴィタリス(英語版)は彼を「フランク王国で最も高名な王であるカール大帝の血を引く、高貴な生まれの人」と評している[4]。また父方ではイングランドのアルフレッド大王の子孫でもあった[4]

1035年、イングランド王エゼルレッド2世の娘ゴーダ(英語版)(またはゴドギフ)と結婚した[5]。ゴーダの母はノルマンディ公リシャール1世の娘エマであった[6]。ウスタシュとゴーダの間に子はなかったが、ゴーダは前夫ヴェクサン伯ドルー(英語版)との間にヘレフォード伯ラルフ(英語版)、ヴェクサン伯ゴーティエ3世(フランス語版)、アミアン司教フルク(フランス語版)を儲けており[2]、ウスタシュは義子となった彼らと同盟関係を結ぶことになった[5]。さらに、1042年にゴーダの兄弟エドワード懺悔王がイングランド王に即位するとその同盟者となった[7]。ゴーダとの婚姻によりウスタシュはイングランドに広大な領地を獲得した[6]

1047年に父が死ぬとブローニュ伯の地位を継承した[1]。1049年ごろ、ゴーダが死ぬと、直後に上ロートリンゲン公ゴットフリート鬚公の娘イダと再婚した[6]。ウスタシュは1049年のランス教会会議(英語版)で近親婚を理由に破門されているので、イダとの再婚の時期は同年以前であるとされる[8][注釈 1]。このころ、ゴットフリートはフランドル伯ボードゥアン5世ホラント伯ディルク4世らと連携して神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世と敵対しており、ウスタシュの破門はハインリヒ3世が擁立した教皇レオ9世によってなされたものであった[6]。同様に、ボードゥアン5世の娘マティルドとノルマンディー公ギヨーム2世との婚姻も禁止されている[6]。結局、ゴットフリートはハインリヒ3世と和解、ウスタシュもこれに続いた[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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