ウジェーヌ・イザイ
Eugene Ysaye
基本情報
生誕 (1858-07-16) 1858年7月16日
ベルギー、リエージュ
死没 (1931-05-12) 1931年5月12日(72歳没)
ベルギー、ブリュッセル
ジャンルロマン派
職業ヴァイオリニスト、作曲家、指揮者
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ウジェーヌ=オーギュスト・イザイ(Eugene-Auguste Ysaye, 1858年7月16日 リエージュ - 1931年5月12日 ブリュッセル)は、ベルギーのヴァイオリニスト、作曲家、指揮者。 5歳の頃から父親にヴァイオリンの指導を受け、リエージュ音楽院に進むとアンリ・ヴュータンやヘンリク・ヴィエニャフスキに師事、いわゆる「フランコ・ベルギー楽派」の教育を受ける。音楽院を卒業後はベンヤミン・ビルゼの楽団(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の前身)においてコンサートマスターを務めるかたわらソリストとして演奏活動を行う。この時期にヨーゼフ・ヨアヒム、クララ・シューマン、フランツ・リスト、後にともに演奏旅行を行うアントン・ルビンシテインなどと親交を結ぶ。 イザイは1885年にコンセール・コロンヌと共演したことで決定的な成功を収め、以降欧米各地で名声を博した。イザイのために作品を書いた作曲家にはセザール・フランク、カミーユ・サン=サーンス、エルネスト・ショーソンなどがいる。1886年にはイザイ弦楽四重奏団
略歴
また1886年にブリュッセル音楽院の教授に就任し、後進の指導にも力を入れた。弟子にはナタン・ミルシテイン、ジョニー・ハイケンス、ジョーゼフ・ギンゴールド、オスカー・シュムスキー、ウィリアム・プリムローズ、アルド・フェラレージなどがいる。
没後の1937年からはイザイを記念した「イザイ国際コンクール」が開催され、これはエリザベート王妃国際音楽コンクールの前身となった。 演奏家としてはその高い技術と説得力ある表現(多彩なヴィブラートの用法と巧みなテンポ・ルバートが特色として伝えられている)で多くの聴衆を惹き付け、ヴァイオリン音楽に大きな影響を与えた。パブロ・カザルスは「イザイほど正確な演奏ができるヴァイオリニストを聴いたことがない」、カール・フレッシュは「彼は『ヴァイオリンの騎士』、最後の大ヴィルトゥオーゾ、我々の芸術における忘れがたい記念碑として記憶に残り続けるだろう」と述べている。 作曲家としてはヴァイオリンのための作品を中心に残しており、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを強く意識した『無伴奏ヴァイオリンソナタ』がよく演奏され、エリザベート国際王妃音楽コンクールの課題の常連である。しかし一部の作品を除くと未だに演奏機会は少なく、作品の演奏がおしなべて困難であることもあって作曲活動の全貌は明らかになっておらず、いまだに全集の編纂すらない。
音楽