ウクライナ鉄道
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ウクライナ鉄道
Укрзал?зниця


種類国営企業
略称УЗ
本社所在地 ウクライナ
03680
キーウ150トヴェールシカ通り5
設立1861年11月4日
1991年12月14日
業種鉄道
事業内容鉄道事業など
代表者社長 ヴォロドィームィル・コザーク
資本金17億6000万 hrn(2005年)
従業員数375900 名
主要株主ウクライナ政府
主要子会社ドネツィク鉄道
リヴィウ鉄道
オデッサ鉄道
南鉄道
南西鉄道
沿ドニプロー鉄道
関係する人物ヘオールヒイ・キルパ
外部リンク ⇒http://www.uz.gov.ua/en
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ウクライナ鉄道(ウクライナてつどう)は、ウクライナ国有・国営鉄道会社である。ウクライナの鉄道事業における独占企業となっており、全国に鉄道網を巡らし、隣国との間に国際列車も運行している。国際鉄道連合(UIC)および鉄道国際協力機構に加盟している。
概要
社名

社名は、ウクライナ語で「ウクライナ鉄道」を意味する略語のウクルザリズヌィーツャ(Укрзал?зниця)が正式に用いられる。また、ウクライィーンシキ・ザリズヌィーツィ(Укра?нськ? Зал?зниц?)という普通表現も公式に使用されている。略称はUZ(УЗ)である。

ウクライナの公用語はウクライナ語のみであるが、国際線の運行もあるウクライナ鉄道ではより使用者の多いロシア語名も公式に使用している。ロシア語名では、ウクライナ語正式名を転写したウクルザリズヌィーツャ(Укрзализныця)や別称を翻訳したウクライーンスキエ・ジェレーズヌィエ・ダローギ(Украинские железные дороги)が使用されている。

一方、正式な英語名は特に指定されていないが、正式名を転写したUkrzaliznytsiaや別称を翻訳したUkrainian Railwaysが使用されることが多い。

日本では、意訳してウクライナ国鉄と呼ばれることもあるが、ウクライナ語等での正式名には「国」を表す単語は入っておらず、直訳はあくまでもウクライナ鉄道である。
社要

ウクライナ鉄道は、1991年夏のウクライナの独立後、それまでのソ連時代の6つの鉄道会社の路線や機材を受け継いで創立された。国内の都市間を結ぶ郊外列車(ポーイズド)や近郊列車(エレクトルィーチュカ)、そして貨物列車を運行している。その他、企業のための専用線や、軍事鉄道、一部の地下鉄も運行している。

鉄道部門の主要資産は22万 hrn(440万USD)となっている。その内、57 %が固定資産であり、流動資産については66.7 %を占めると評価されている。
ウクライナの鉄道史

ウクライナにおける最初の鉄道は、オーストリア帝国領であった西部ウクライナで建設された。最初の鉄道となったのは、1861年に開通したペレームィシュリリヴィウ間の路線であった。クリミア戦争が終結すると、ロシア帝国領の東部ウクライナでも1865年オデッサ・バールタ間の路線が開通した。その後、ロシア帝国領下の路線は、1869年にバルタからクレメンチューク間、1870年にバルタからジュメールィンカ経由でキーウ間が延伸された。また、ロシア本土の路線との連結も進められ、1869年にはクルスクハルキウタガンローク間が、1870年にはクルスク・コノトープ・キーウ間が開通した。東西ウクライナの鉄道が連結されたのは1871年で、ヴォロチーシク経由でリヴィウ・ジュメールィンカ間が連結された。東西ウクライナの鉄道網の連結に併せて、中部ウクライナの鉄道網との連結も実現した。キーウで記念碑になっているソ連時代のФДП型蒸気機関車

19世紀末までにウクライナの鉄道網はほぼ完成した。その構成は、キーウや他のウクライナの中心的都市にではなく、支配国の中心都市(ウィーンおよびモスクワ)に向かっており、この時代のウクライナにおける帝国植民地主義的支配を物語るものであった[1][出典無効]。

ロシア革命後、一部の鉄道路線が廃止され新しい路線区分に組み替えられるなどの改変が行われた。ロシア内戦の時期、またウクライナ・ソヴィエト戦争ポーランド・ソヴィエト戦争では、ウクライナの鉄道は大きな被害を受けた。鉄道網の発達していたウクライナでは装甲列車が有効に使用されたが、同時に軍事的に重要な戦略拠点と看做された各地の大駅ではクルートィ駅の戦いやキエフ=ヴォルィーンシクィイ駅の戦いのような激しい戦闘が行われ、鉄道機能が破壊された。ソ連の結成後はインフラの再建や新しい車両の製造などが積極的に行われ、ウクライナの鉄道はかつての機能を取り戻したが、それもまた大祖国戦争で破壊された。ルハンシク駅に停車するルハンシクテプロヴォーズ製ЕПЛ9Т型電車使用の近郊電車(エレクトルィーチュカ)

戦後、クリミア半島ウクライナ共和国に組み入れられた。ウクライナにはハルキウ輸送機械製造工場(現V・O・マールィシェウ記念工場)やルハンシク・ディーゼル機関車製造工場(現ルハンシクテプロヴォーズ)のようないくつかの重要な鉄道車両工場が置かれ、主に蒸気機関車、のちディーゼル機関車が開発・製造された。また、ルハンシクテプロヴォーズでは近郊電車(エレクトルィーチュカ)として使用される電車の開発・製造にも力を入れている。

1991年8月24日にウクライナが独立すると、9月18日国会の勧告によりウクライナの6鉄道の社長の下で6社のグループ化の検討が開始された。11月1日までにすべての課題に対する回答が出され、ウクライナの鉄道財産はひとつに統合されることとなった。1991年12月14日の内閣第356号政令「ウクライナの鉄道輸送の国家機関の設立について(Про створення Державно? адм?н?страц?? зал?зничного транспорту Укра?ни)」により、国営会社ウクライナ鉄道が設立された。初代の社長には、ボルィース・オルィーイヌィクが就任した。1992年2月12日には内閣政令第70号にてウクライナ鉄道に関する最初の法的規定がなされた。ウクライナ憲法の制定に関連し、1996年7月4日には国会で「鉄道輸送法(Закон Укра?ни "Про зал?зничний транспорт")」が採択された[2]
旅客輸送

ウクライナの鉄道における最も重要な旅客幹線は、キーウ・ファースチウ・コズャートィン・ズドルブニウ・リヴィウ線、コズャートィン・ジュメールィンカ・オデッサ線、キーウ・コノトープ・ショーストカ線、キーウ・ポルタヴァ・ハルキウ・デバーリツェヴェ線、ファースチウ・スミーラ・ドニプロペトロウシク線、クルィヴィーイ・リーフ・ドニプロペトロウシク・ドネツィク線、ハルキウ・ドニプロペトロウシク・ザポリージャシンフェローポリセヴァストーポリ線、リヴィウ・ムカーチェヴェ・チョープ線などである。
貨物輸送カーミヤンカ=ブージカ・スコーレ・ヴォロヴェーツィ間を走る貨物列車と旅客列車

貨物輸送の主要品目となっているのは、石炭鉱石などの天然資源である。このような様々な鉱物石油が貨物輸送では重要な地位を占めている。

これらの輸送物資は、主に4つの輸送経路で運ばれている。最大の貨物路線はクルィヴィーイ・リーフドニプロペトロウシク・デバーリツェヴェ線、クルィヴィーイ・リーフ・ファースチウ・リヴィウ線である。また、オデッサ、ベルジャーンシクマリウーポリといった黒海から世界に繋がるへも貨物路線が直結している。


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