ウクライナ蜂起軍
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ウクライナ蜂起軍
独ソ戦に参加
ウクライナ蜂起軍の軍旗
活動期間1942年-1954年
活動目的ウクライナ・ナショナリズム(英語版)
ウクライナ独立
反独(英語版)
反ソ
反ポーランド(英語版)
反ユダヤ主義
指導者ロマン・シュヘーヴィチ(英語版)
活動地域ウクライナ
関連勢力ウクライナ民族主義者組織
ウクライナ人民共和国亡命政府
敵対勢力ナチス
ソ連
ポーランド国内軍
ポーランド人民軍
赤軍パルチザン
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ウクライナ蜂起軍(ウクライナほうきぐん、ウクライナ語: Укра?нська повстанська арм?я, УПА;英語: Ukrainian Insurgent Army、UPA)は、ウクライナにかつて存在した反体制武装組織。独ソ戦最中の1942年10月に結成され、おもに西ウクライナにおいて、赤軍ドイツ軍の双方に対するパルチザンレジスタンス活動を行い、第二次世界大戦終結後はソ連と戦った。

現在のウクライナにおいてはウクライナ国家独立のために戦った英雄として名誉回復されているが、ソ連とその後継国家であるロシア及びポーランドにおいては、「ナチス協力者(英語版)」「戦争犯罪組織」と扱われている。
背景

当時ソ連の一部であったウクライナでは1932年から1933年にかけて起きたホロドモール大粛清下の弾圧により被害を受けた農民を中心に反ソ感情が高まっていた。

1941年6月に独ソ戦が始まるとドイツ軍が侵攻し赤軍を撃退したことから、農民は「解放軍」として喜んで歓迎し、大勢のウクライナ人が兵士に志願し、取り残された共産党員を引き渡すなどナチスの支配に積極的に加担したほどであった。ウクライナ人国家独立を目標とするウクライナ民族主義者組織(OUN)も当初は親独のウクライナ国家を建設してドイツと同盟を結び、ソ連と戦うことを期待していた。

しかし、ドイツ人の生存圏の拡大とスラヴ系諸民族の排除を目指すナチスもまた、ウクライナ人に過酷な政策を実施した[1]。特にナチスの食糧大臣ヘルベルト・バッケ東部総合計画としてホロドモールを参考にそれらを上回る規模の大飢饉を起こし、入植するドイツ人の邪魔になる現地人を絶滅させる計画を立てていた(飢餓計画(英語版))。

期待を裏切られたウクライナでは反ソ・反共感情はそのままに反独感情も高まり、各地ではドイツへの抵抗運動が始まった。
歴史UPAを指揮したロマン・シュヘーヴィチウクライナ蜂起軍の戦功十字章

1942年10月、ヴォルィーニでOUNの軍事組織や秩序警察配下のウクライナ補助警察(英語版)の脱走兵[2]、反独・反ソの地元住民らをまとめる形でウクライナ蜂起軍が結成され、ロマン・シュヘーヴィチ(英語版)が司令官となった。ドイツ軍や赤軍パルチザンと戦い、ポーランドでも活動した。外国からの援助はほとんど得られず、UPAの武装はソ連軍が撤退の際に置いて行ったものや元ウクライナ補助警察の脱走兵が持ち出したドイツ軍兵器などであった。また、結成初期は練度不足を補うためにウクライナ補助警察に潜入して訓練を積んでから武器を盗んで脱走するという手法を取っていた[3]

1943年1月以降から本格的な武装闘争を始め、ドイツ軍の基地や輸送隊への襲撃を繰り返した。また、ドイツ軍との戦闘に加え、親ソの赤軍パルチザンに対しても攻撃を行った。ドイツ側も掃討作戦として近隣の村落を襲撃・壊滅させるなどして報復した。

1944年に入るとソ連側の反攻が本格化し、ソ連に対抗するためUPAはドイツ軍と一時的な協力関係を築くが、これが先述した「ナチス協力者」のレッテルを張られる原因にもなった。1944年5月にはドイツ軍はウクライナから撤退し、ソ連軍が進軍してくるとUPAはソ連に対しても同様に武装闘争を続けた。

しかし1945年5月にベルリンが陥落し、ヨーロッパでの戦争が終わりを迎えるとソ連はUPA撲滅に全力を注ぎ、支持層の地域住民の追放、ポーランドと共同軍事行動を起こし、ポーランドでは国内のウクライナ人を強制退去させる「ヴィスワ作戦」が行われた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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