ウクライナ・コサック
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事には複数の問題があります。改善ノートページでの議論にご協力ください。

出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2016年10月)


脚注による出典や参考文献の参照が不十分です。脚注を追加してください。(2016年10月)
出典検索?: "ウクライナ・コサック" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL

トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサックたち

ウクライナ・コサック(ウクライナ語:Укра?нськ? козаки、ウクライィーンスィキ・コザークィ[1])は、15世紀後半以降、リトアニア大公国内のウクライナと呼ばれるドニプロ川の中下流域の広域におけて存在したコサックの軍事的共同体、またはその共同体の系統をもつ軍事的組織である。当初はポーランド・リトアニア共和国へ従属したが、17世紀半ばに自らのコサック国家の編成を経て、18世紀以降にロシア帝国への従属を強めていった。地域ごとにザポロージャ・コサック(英語版)、ドナウ・コサック(英語版)、クバーニ・コサックに分かれている。
概要
歴史ウクライナ・コサックの旗(1762年

「コサック」という言葉は「群(社会)を離れた者」という意味のトルコ語から来た言葉である。もしくは チュルク語で「自由な人」 。14世紀から15世紀には、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)の士・豪族のうち、この地を支配したリトアニア大公国から貴族としての権利が認められなかった者が少なからずおり、その子孫を中心とする人々がコサック団隊としてウクライナステップ地帯で出現したとされる。領主への隷属を嫌って「リトアニア・モスクワ両公国の南部の辺境」へ逃亡してきた農民たちという起源説はあるが、文献等による証拠が不足している。コサックは漁業や海賊行為を営むため、ドニプロ川・ドン川の辺に住みついた。

この内、ドン川に生活の拠点を置いたコサックはドン・コサック軍を編成し、南ロシアから東ウクライナの一部に勢力圏を敷いた。ドン・コサックは、のちにロシアへの従属を強め、ロシア・コサックの代表格となっていった。一方、ドニプロ川下流にはドムィトロー・ヴィシュネヴェーツィクィイによってザポロージャのシーチ(英語版)が建設された。これを拠点に編成されたコサック軍がザポロージャ・コサック(英語版)で、その出自によりポーランド・リトアニア共和国との関係が強かった。このザポロージャ・コサック軍が次第に勢力を強め、ウクライナ・コサックの代表的存在となっていった。

ウクライナ・コサックではロシアのコサック軍とは異なる階級や秩序が敷かれた。ロシアのコサック軍と共通するオタマーン職のほかに、ウクライナ・コサックではラーダによって選出される最高職としてヘーチマンを置いた。ウクライナ・コサック第一のポリシーは「自由と平等」で、これに反する者はその身分に拘らず社会から追放された。

16世紀 - 17世紀には、ウクライナ・コサックは神聖ローマ帝国フランス王国の軍隊の傭兵としてヨーロッパでの戦争に活躍し、有力な軍事力となった。一方、1569年に発足した貴族共和国のポーランド・リトアニア共和国ではその3年前の1566年にウクライナ貴族の議決によりウクライナはリトアニア大公国からポーランド王国へと移りその諸県となった。そこでは登録コサックシュラフタ(共和国の貴族)として他の全てのシュラフタと同様の権利を認められたが、その数と権利が限られていたため、ウクライナのシュラフタは権利拡大の要求を掲げてしばしばロコシュと呼ばれる合法的な叛乱を起こした。1625年に起こったポーランド・コサック戦争(ポーランド・ウクライナ戦争とも)、1630年のヘーチマン・タラース・フェドローヴィチ(トリャスィーロ)率いるフェドローヴィチの蜂起などである。共和国政府はこれらの叛乱を重く見てウクライナ・コサックへの締め付けを強化し、その過程で多くのコサックが生活に困る事態になっていった。

1648年にはヘーチマン・ボフダン・フメリニツキーの先導によりウクライナ・コサックがポーランド・リトアニア共和国に対する大規模な反乱(フメリニツキーの乱)をおこしたが、その反乱はロシア・ツァーリ国モスクワ大公国)を巻き込んでウクライナ・コサック解放戦争の様相を呈した。しかしながら、彼はウクライナの共和国からの自治権を勝ち取ったものの、その際にモスクワ大公国に援助を申し出たため、それを逆手に取られその後長年にわたるロシアによるウクライナ支配を招いてしまった。それでも彼は19世紀に起こったウクライナ民族主義のもとで解釈された現在はウクライナでひとりの民族的英雄として扱われており、首都キエフには彼の銅像の立つ広場があり、道を走るバスにも「ボフダン」のブランド名を持つものがある。また、彼の肖像は5フリヴニャ紙幣にも用いられている。

見張中

ウクライナ・コサックの連隊長

マゼーパ時代の大砲隊のコサック

コサックの軍事書記

コサックの長老

ザポロージャ・コサック

ザポロージャ・コサック

ドナウ川のザポロージャ・コサック

コサック要塞(現代復元)

ウクライナのコサックの紋章

17 世紀の古いコサックの旗

18世紀にコサックが領土を測定するために使用したユニークなグラニッツの柱の1つ。キロヴォフラド地方のモショリン村で発見された。現在はズナミャンカ市にあります。

1708年には大北方戦争中にスウェーデンと同盟を結んだヘーチマン・イヴァン・マゼーパがロシアに対する反乱を起こしたが、一部のザポロージャ・コサックを除く多くのウクライナ・コサックはマゼーパに背き、ロシア側に加担した。マゼーパはポルタヴァの戦いで致命的な敗北を喫し、戦いに敗れた多くのコサックが辿ったのと同じ道、トルコ領への逃亡を余儀なくされた。これが、ウクライナでコサックの起こした最後の大反乱となった。現在、マゼッパの肖像はウクライナの紙幣の肖像画のひとつになっている(10フルィーウニャ紙幣)。

その後、ウクライナは貴族を中心に徐々にロシアに同化されていき、エカチェリーナ2世の時代までにはウクライナ・コサックの伝統は崩壊状態となった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:36 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef