ウクライナの映画
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ウクライナの映画

スクリーン数2,332 (2011)[1]
主な配給業者B And H 20.0%
Gemini Film 11.0%
Kinomania 7.0%[2]
映画撮影数(2009)[3]
フィクション10
アニメーション2
ドキュメンタリー7
観客動員数(2018)[4]
合計14,995,200
国内の映画448,400 (3.0%)
興行成績 (2011)[4]
合計UAH 3.45億 (~?1060万)
国内の映画UAH 462万 (~?142,000) (1.3%)

ウクライナの映画 (ウクライナのえいが、ウクライナ語:Укра?нський к?нематограф、ロシア語:Кинематограф Украины) には、ウクライナ国内で製作された映画、またウクライナ出身者によって国外で製作された映画が含まれる[5]

第二次世界大戦後までは、ナショナリズムを鼓舞するための国策映画・プロパガンダ作品が主流だったが、のちにウクライナ独自の表現を獲得し、一部の監督は国際的に高く評価されるようになった[6]1991年に独立するまでウクライナの映画製作はソビエト連邦ロシア連邦ときわめて緊密な関係を築いてきたため、初期の製作者・俳優の多くはソビエトロシア映画史の重要な一部ともみなされている[7][8]

2024年には、ロシアのウクライナ侵攻を描いた『実録 マリウポリの20日間』がアメリカの第96回アカデミー賞で長篇ドキュメンタリー賞を受賞、ウクライナの映画として初の同賞受賞を果たした[9]
歴史
草創期

ウクライナにおける長編映画の製作開始は西ヨーロッパよりもやや遅れ、1907年の『迷宮のコチュベイ(Kochubei in the Dungeon/ Kochubei v temnitse)』が最初の例とされている[6]。しかし恒常的な映画製作には結びつかず、1911?1914年の間に映写技師サーヘンコ(D. Sakhenko)が数本の短編を撮ったのみだった[10]

しかし1917年の革命後、ウクライナの映画館がすべて国有化され、さらに1922年までにヤルタオデッサに国営の映画撮影所が設立されてから、本格的な映画製作が始まった[7]。この頃には「アジトキ agitki/agitka」と呼ばれるプロパガンダ用の短編が大量に製作されたほか、ウクライナ出身の監督ピョートル・チャーディニン(Pyotr Chardynin)が『タラス・シェフチェンコ(Taras Shevchenko)』(1926)のような愛国心涵養を目的とした長編映画を多数撮っている[6]
ジガ・ヴェルトフとドヴジェンコ

革命後に映画製作はウクライナで国民統一の重要なツールとなり、1928年、「全ウクライナ写真映画管理局 (The All-Ukrainian Photo-Cinema Administration、略:VUFKU) 」がキエフに大規模な映画スタジオを設立[8]。ここでは国策映画のほかにも、ソビエト映画のモンタージュ理論を応用した多様な実験作品も製作された。ジガ・ヴェルトフはその重要な推進者の一人となり、『これがロシヤだ』 (1929)や『情熱』(1930)は、このキエフのスタジオで製作されている[8]ジガ・ヴェルトフ『情熱』のポスター。ウクライナの撮影所で製作された彼の作品は、ソヴィエト映画にきわめて大きな貢献を行った[11]

同時期に登場したアレクサンドル・ドヴジェンコは、主にウクライナにおける革命と集団化の問題を扱った作品を手がけ、『大地(Earth/ Zemlia)』 (1930)などは、ソ連国内のみならず、国際的にもきわめて高く評価されるようになった[10]。また同じくウクライナ人の監督イホール・サヴチェンコ(Ilhor’ Savchenko)も1930年代に名声を確立し、第二次大戦中にキエフ撮影所が中央アジアへ疎開した際も映画製作を続けている[12]
第二次世界大戦後

第二次世界大戦後、ウクライナでは社会主義リアリズムの手法をとるプロパガンダ映画が主流になる[8]。しかし1960年代にジョージア(グルジア)出身のセルゲイ・パラジャーノフ が内省的・詩的な映画表現に道を開き、とくに『火の馬(Shadows of Our Forgotten Ancestors/ Tini zabutykh predkiv)』 (1965) は世界的に大きな影響を及ぼした[6]

パラジャーノフ以後、ウクライナ映画はプロパガンダを脱して独自の映画表現と呼べるものの成長を始めたとされており[13]ユーリー・イリエンコ(Yuri Il’enko)、イヴァン・ムィコラチュク(Ivan Mykolaichuk)、レオニド・オシカ(Leonid Osyka)、ロマーン・バラヤン(Roman Balaia)などがその潮流で活躍した[13]

この傾向は1970年代までつづき、とくにオデッサ映画スタジオを拠点としたキラ・ムラートワ (Kira Muratova)に至って、ウクライナ映画の芸術表現は高い完成度を獲得したと考えられている[14]
独立以後セルゲイ・パラジャーノフの肖像写真を使ったアルメニアの切手 (1999年)。パラジャーノフはウクライナで多数の映画を製作し、国際的に大きな影響力を持った[15]

1991年のウクライナの独立、さらに2004年の民主化運動(オレンジ革命)ののち、ウクライナ国内の映画館にはハリウッド大作があふれるようになり商業化が鮮明となった[16]。国内の映画製作でも独自の芸術表現を模索する動きは後退するが、一方で産業としては安定し、2009?2012年にかけては毎年10?15本の作品が製作・公開されるようになった。この中からロマーン・ボンダルチュク(Roman Bondarchuk)、ナディア・コシュマン(Nadiya Koshman)らが現れ、キラ・ムラートワは遺作『永遠の帰郷〈日本未公開〉(Eternal Homecoming / Vechnoe vozvrashchenie)』(2012)を撮っている[14]

2014年、ウクライナ手話のみで進行する作品『ザ・トライブ(The Tribe/ Plemya)』(ミロスラヴ・スラボシュヴィツキー監督、2014)はとくに欧米で高く評価され、主要映画祭で20以上の賞を受賞するなどウクライナ映画が国際的に再注目されるきっかけとなった[6]

同年、ロシアがクリミア半島を併合すると国内の政治状況は不安定になり、ウクライナ国立映画庁の予算も大幅に削減されたため、2015年には国内で製作された映画は3本にまで激減した[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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