ウォーレン委員会
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ウォーレン委員会報告書をジョンソン大統領に提出する委員たち。左から右へ ジョン・ジェイ・マックロイ , ジェイ・リー・ランキン, リチャード・ラッセル, ジェラルド・フォード, 委員長アール・ウォーレン, 大統領リンドン・ジョンソン, アレン・ダレス, ジョン・シャーマン・クーパー, ヘイル・ボッグス。1964年9月24日ウォーレン委員会報告書のカバーページ。“大統領殿。貴殿の1963年11月29日付執行命令第11130号による「1963年11月22日のケネディ大統領暗殺に関する大統領特命調査委員会」は、以下をもって最終報告と致します”(委員長及び全委員連署)

ウォーレン委員会(ウォーレンいいんかい、: Warren Commission)は、1963年11月22日にアメリカ合衆国テキサス州ダラスで起きたケネディ大統領暗殺事件を検証するため、1963年11月29日リンドン・ジョンソン第36代大統領により設置された調査委員会である。

なお、委員会の正式名称は「ケネディ大統領暗殺に関する大統領特命調査委員会」(President's Commission on the Assassination of President Kennedy)であり、「ウォーレン委員会」は委員長を務めた連邦最高裁長官のアール・ウォーレン(Earl Warren)に由来する通称である。
設置までの経緯.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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1963年11月22日、テキサス州ダラスを遊説で訪れたケネディ大統領夫妻を乗せた車が、ダラス市内をパレード中に狙撃され、ケネディ大統領が死亡し、同乗していたジョン・コナリーテキサス州知事が重傷を負った。これは全米を震撼させて世界中に大きな衝撃を与えた。暗殺後に昇格したジョンソン大統領は、事件発生から3日後の11月25日に当時のFBI長官エドガー・フーバーにケネディ暗殺事件の詳細な報告を求めておきながら、FBIからのオズワルドの単独犯行という結論を得て捜査を終わらせることを(何者かの指示を受けての事かは不明だが)考えていた。

しかし容疑者であったリー・ハーヴェイ・オズワルドジャック・ルビーによって警察署管内で殺害されたことによって、ダラス市警察本部のずさんな捜査と背後関係に大きな疑惑が浮かび、テキサス州の司法長官が州としての暗殺調査を行うことを明らかにした[注釈 1]。また上下両院が個々に事件の調査委員会を設置する動きをみせ、もはやFBIからの最終報告だけで調査が終了することは困難で、また単なる暗殺事件で処理できる問題ではないと判断して、大統領直属の特別調査委員会を設置して、当面は特別調査委員会で全ての調査を行うことで、テキサス州や上下両院議会の動きを牽制する狙いもあった。

しかし一番大きな目的は、当時の東西冷戦下で、前年のキューバ危機ソ連との緊張関係が続いていた時代の中で、ソ連へ亡命してまた米国に戻り、親カストロ派の活動を行うオズワルドが犯人と目されるがため、米ソ関係にも波及して外交問題にもなりかねない懸念が生じ、また陰謀説も囁かれるなかで国内の政治状況にも影響が心配されることで、国民の不安や疑惑を払拭することに重きを置き、次の年の大統領選挙の前にも暗殺事件の調査を終えて国内の安定を図ることが緊急の課題となっていた。

そこで、上下両院の与野党議員と前CIA長官、そして民間から1人を入れて、最終的に委員長には最高裁長官のアール・ウォーレンを指名し、彼は当初司法は行政に介入したくないという理由で固辞したが、ソ連の核攻撃の危険性を訴えるジョンソンに説得され委員長就任を受諾した。
メンバー[1]

委員長

連邦最高裁長官アール・ウォーレン


委員[注釈 2]

上院議員リチャード・ラッセル Jr.[注釈 3]

上院議員ジョン・シャーマン・クーパー

下院議員ジェラルド・フォード

下院議員ヘール・ボッグズ (en:Hale Boggs)

弁護士ジョン・J・マックロイ (en:John Jay McCloy)

CIA長官アレン・ウェルシュ・ダレス


ジェネラルカウンセル

J・リー・ランキン (1907-1996)


アシスタントカウンセル


フランシス・W・H・アダムズ (1904?1990)

ジョセフ・A・ボール(1902-2000)

デビッドW.ベリン(1928?1999)

ウィリアム・サデウス・コールマン・ジュニア(1920?2017)

メルビンA.アイゼンバーグ

バートW.グリフィン

レオンD.ヒューバートジュニア

アルバートE.ジェンナージュニア(1907?1988)

ウェズリー・J・リーベラー(1931-2002)

ノーマン・レドリッチ(1925?2011)

W・デビッド・スローソン

アーレン・スペクター(1930?2012)

サミュエルA.スターン

ハワード・P・ウィレンス(司法省との連絡係))

スタッフ


フィリップ・バーソン

エドワードA.コンロイ

ジョン・ハート・イーリー(1938?2003)

アルフレッド・ゴールドバーグ

マレーJ.ラウリヒト

アーサー・マール

リチャードM.モスク(1939?2016)

ジョン・J・オブライエン(1919?2001)

スチュアート・R・ポラック (1937?)

アルフレッダ・スコビー

チャールズN.シェイファージュニア

ロイドL.ワインレブ(1936?2021)


ウォーレン委員会報告書

ウォーレン委員会は、独自調査として延べ552人の証人喚問を行い、やがて1964年9月に全文約296,000語、全888ページに全26巻(20000ページ以上)、委員会文書1553の膨大な関連資料が付いた報告書がまとめられた[2]。そして1964年9月24日に調査の結果を報告書(Warren Commission report)としてジョンソン大統領へ提出され、その3日後に一般公開された。
報告書の結論[3]
ケネディ大統領を殺害し、コナリー知事を負傷させた銃弾(複数)は、テキサス教科書倉庫の南東角にある6階の窓から発射されたものである。

ケネディ大統領は、最初に首の後ろから入って首の前の下の部分から出た弾丸に撃たれたが、必ずしも致命傷にはならなかっただろう。 大統領は、頭の右後部に当たった2発目の弾丸で、致命的な大怪我を負った。

コナリー知事は、背中の右側から入った弾丸が胸の右側を通り、右の乳首の下から出て、右手首に当たった。この弾丸はその後、彼の右手首を通り、左大腿部に入り、表面的な傷を負わせた。

発砲がトリプル地下道や、車列の前方から、又はその他の場所から行われたという信頼できる証拠はない。

証拠の重みからみて、発砲は3発であった。

どの発砲がコナリー知事に命中したかを決定することは、委員会の本質的調査には必要ではないが、大統領の喉を貫いたのと同じ弾丸がコナリー知事の傷の原因となったことを示す、専門家の非常に説得力のある証拠が存在する。しかし、コナリー知事の証言やその他の要因によって、この可能性については意見が分かれている。しかし、委員会のどのメンバーにとっても、大統領とコナリー知事の傷の原因となったすべての銃弾がテキサス教科書倉庫の6階の窓から発射されたことは疑いのないことである。

ケネディ大統領を殺害し、コナリー知事を負傷させた銃弾(複数)はリー・ハーヴェイ・オズワルドによって発射されたものである。

オズワルドは、暗殺の約45分後にダラス警察のJ.D.ティピット巡査を殺害した。

ジャック・ルビーは1963年11月24日午前11時17分過ぎにダラス警察署の地下に入り、午前11時21分にリー・ハーヴェイ・オズワルドを殺害した。ルビーの侵入手段に関する証拠は決定的ではないが、証拠の重みから、ルビーはメイン通りから警察署の地下に通じるスロープを歩いたと考えられる。ルビーがオズワルド殺害に際してダラス警察の職員に助けられたのではないかという噂を支持する証拠はない。

委員会は、リー・ハーヴェイ・オズワルドまたはジャック・ルビーのいずれもが、ケネディ大統領を暗殺するための国内外の何らかの陰謀に加わっていたという証拠を発見していない。

委員会の全調査において、連邦、州、地方のいかなる役人による、米国政府に対する陰謀、転覆、背信の証拠も見つかっていない。

委員会は、オズワルドの動機について決定的な判断を下すことはできなかった。


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