ウォーレス・カロザース
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ウォーレス・ヒューム・カロザース
ネオプレンの実演をするウォーレス・カロザース[1]
生誕 (1896-04-27) 1896年4月27日
アメリカ合衆国アイオワ州バーリントン
死没 (1937-04-29) 1937年4月29日(41歳没)
アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア
自殺
研究分野有機化学
出身校イリノイ大学
博士課程
指導教員ロジャー・アダムズ(英語版)
主な業績ナイロンの発明
プロジェクト:人物伝
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ウォーレス・ヒューム・カロザース(Wallace Hume Carothers, 1896年4月27日 - 1937年4月29日)は、アメリカ化学者デュポン有機化学部門のリーダーとして、世界で初めて高分子から成る化学繊維を発明した[2]

デラウェア州ウィルミントン近郊にあるデュポンの研究所でグループリーダーを務め、そこで重合体の研究の大部分を行った[3]。そこでカロザースはネオプレンの基礎となる研究を行い、ナイロン開発を行った。博士号取得後デュポンで基礎研究をする前は、いくつかの大学で教職についていた。

1936年2月21日、ヘレン・スイートマンと結婚。若い頃からうつ病を患っていた。ナイロンで成功したが「達成できているモノは何もなく才能が枯渇した」と考えるようになる。妹が死去するという不幸も重なり、1937年4月28日、フィラデルフィアのホテルの一室で青酸カリを混ぜたレモンジュースを飲んで自殺した[4]。彼の娘が誕生したのは自殺からおよそ7カ月後(1937年11月27日)だった。

カロザースが発明したナイロンは、綿から合成繊維への転換をもたらし、世界を変える偉大な発明だった。しかしながら死亡した当時は、ナイロンはデュポン社の企業秘密だったため、功績の大きさにもかかわらず、カロザースは無名のままこの世を去った。2000年11月にアメリカ科学振興協会はカロザースを表彰した。
学生時代まで

アイオワ州バーリントンにて4人兄弟(弟1人、妹2人)の長男として生まれる。幼いころから機械いじりが好きで、実験ばかりしていた。デモインのパブリックスクールに入学し、学校では真面目な生徒として知られていた。卒業後、父が副校長を務めていた商業専門学校に進学し、会計と秘書業務を学び、1915年7月に卒業。

1915年9月、ミズーリ州のターキオカレッジ(英語版)に進学。当初英語を専攻していたが、化学に転向した[5]。化学では天賦の才を発揮し、教授が他の大学に移った後は卒業前にもかかわらず講師を務めていた[6]。1920年、24歳でターキオを卒業すると、イリノイ大学大学院に進学。カール・マーベル(英語版)教授の下で1921年に修士号を取得した[7]

1921年から22年にかけて、サウスダコタ大学で化学の講師を務めている。そこでの研究をまとめた論文が米国化学会誌に掲載された。イソシアン酸フェニル(英語版)とフェニルアジド[8]の物理特性を論じた論文である。この2つの化合物の特性はよく似ており、彼は後者の化学組成を C6H5-N=N=N のように窒素原子が直線的に連なったものとした(従来はリング状だと見られていた)[9][10]

イリノイ大学に戻ると、ロジャー・アダムズ(英語版)の下で博士課程を学び、1924年に博士号を取得。専門は有機化学だが、物理化学や数学も得意とした。1922年から23年にかけては研究助手も務め、1923年から24年にかけては奨学金を支給されていた。
学界での経歴

博士号取得後2年間、イリノイ大学で有機化学の講師を務めた。

1926年ハーバード大学にて有機化学の講師となる。1933年にハーバード大学学長となったジェイムズ・B・コナントはカロザースについて次のように述べている。

カロザース博士は当時から後の業績に見られるような高い独創性を発揮していた。彼は人と同じ道を辿ることをせず、有機反応の一般的解釈を鵜呑みにしなかった。ハーバード時代から彼は重合反応と高分子化合物の分子構造について考え始めていた[11]

1927年、デュポンは製品には直接結びつかない基礎研究部門を設けることにした。カロザースはデラウェア州ウィルミントンに赴き、デュポンの新たな有機化学研究部門の責任者に就任する可能性について議論した[12]
デュポン

学界を離れるという決断はカロザースにとって困難なものだった。そのため当初は「私には神経系に障害があり、そちらでは今以上に役に立たないかもしれません」としてデュポンの要請を断わっていた[13]。そこでデュポンの重役ハミルトン・ブラッドショーがハーバードに出向いて説得にあたり、転職を納得させた。当時の彼の月給は267ドル(年収3200ドル)だったが、デュポンは月給500ドルを提示した。

ターキオでのルームメイトだった Wilko Machetanz への手紙で、カロザースはうつ病への不安を記している[14]
ネオプレン

1928年2月6日、デュポンの研究施設に着任。ドイツの化学者ヘルマン・シュタウディンガーによる重合体高分子説を実証するため、重合体合成を研究班の研究テーマとし、エミール・フィッシャーが達成していた分子量4,200以上の合成を目指した。

1928年夏、博士課程を指導したロジャー・アダムズと修士課程を指導したカール・マーベルをコンサルタントとして招聘。しかし、1929年中ごろになっても分子量4,000以上の重合体を合成できないでいた。

1930年1月、エルマー・K・ボルトン(英語版)がカロザースの直属の上司に就任。ボルトンは具体的成果を求め、同年中にそれは達成された。ボルトンはカロザースにアセチレン重合体の研究を依頼し、合成ゴムを生み出した。1930年4月、カロザースのスタッフの1人アーノルド・M・コリンズがクロロプレンの単離に成功。その液体を重合させることでゴム状の固形物質ができた。これを製品化したのが世界初の合成ゴムネオプレンである。
ポリエステル

同年、カロザースのチームの1人ジュリアン・ヒルが分子量4,000以上のポリエステルの合成に再度挑戦しはじめた。間もなく彼は分子量約12,000の重合体合成に成功。分子量が高くなったため、液状だった重合体を繊維化することが可能になった。これはの代替となる合成繊維として実用化された。

ポリエステルとポリアミド段階成長重合で形成される縮合重合の例である。カロザースは段階成長重合の理論を考案し、平均的重合度単量体から重合体への重合率(収率)を関係付けるカロザースの方程式(英語版)を導き出した。この方程式は段階成長重合でのみ成り立ち、高分子量を得るには高重合率が必要であることを示している。

ヒルはまた、グリコールと2価酸を減圧下で加熱し分子蒸留器で水分を除去して縮合反応を発生させ、伸縮性のある強靭な繊維を合成した。しかしこの繊維はお湯につけるとどろどろの状態に戻ってしまうため、製品化には結びつかなかった。


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