ウォーリア_(装甲艦)
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同名艦についてはウォリアーをご覧ください。
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艦歴
発注1859年5月11日
造船所テムズ鉄工造船所
起工1859年5月25日
進水1860年12月29日
就役1861年8月1日
退役1883年5月31日
その後博物館船
性能諸元
排水量常備:9,210 トン
全長418 ft (127 m)
115.87m(水線長)
全幅58 ft (17.78 m)
吃水27 ft (8.2 m)
推進帆装
石炭専焼缶10基+
レシプロ機関1基1軸推進
最大出力5,267hp
最大速力13ノット(帆走)
14.5ノット(汽走)
17.5ノット(併用)
航続性能11ノット/2,100海里(汽走のみ)
燃料850トン(石炭)
乗員705名
兵装7.2インチ(110ポンド)後装式アームストロング砲 10門
8インチ(68ポンド)前装式砲 26門
4.75インチ(40ポンド)後装式アームストロング砲 4門
(1867年:1885年型 20.3cm(14.8口径)後装式単装砲4基
17.8cm(15.9口径)後装式単装砲28基)
装甲(鉄製)舷側:114mm(主装甲部)
甲板:なし
砲郭部:114mm

ウォーリア (HMS Warrior) は鉄製の船殻と装甲を持ったイギリス海軍最初の装甲艦1860年進水、1861年竣工。その前年に進水したフランスの装甲艦ラ・グロワールに対抗して建造された。
概要主機のレプリカ

1861年8月に就役した時点で、ウォーリアは世界にそれまで存在した装甲艦よりも際立って大きく、また最も高速、重武装、重装甲の軍艦であった。ラ・グロワールに比べても2倍の大きさを持ち、速度、装甲、備砲のいずれも完全に凌駕していた。

ウォーリアは革命的な技術を採用したわけではなかったが、新型の小型蒸気機関ライフル付き後装砲、装甲配置と装甲の新素材、それにスクリュー推進などのアイディアを初めて1隻の船に統合し、かつてないスケールでそれを実現していた。

ウォーリアの建造とともに、高威力の艦砲と高い防御装甲という矛盾のことわざ通りの果てしない性能競争が始まり、それは第二次世界大戦において空軍力戦艦を時代遅れの存在にするまで続いた。ウォーリア自身もこの激しい競争によって速やかに時代遅れとなり、1883年5月には実戦部隊から引退した。ウォーリアは現在ポーツマス港において博物館船となっている。
設計と建造

ラ・グロワール設計の極秘情報は1858年5月にイギリス海軍本部にもたらされた。クリミア戦争中の英仏間に存在した緊密な協力関係は一瞬にして消滅した。ラ・グロワールとその姉妹艦の詳細情報はすべてフランスの最高機密として扱われていた。新しく成立したイギリスのダービー政権は当初、フランスの新しい建艦計画を深刻な脅威と受けとめようとしなかったが、1858年8月になって、その結果としてフランスが蒸気推進艦に関してはイギリスと肩を並べ、装甲艦に関してはイギリスをすっかり凌駕することが明らかになった。

海軍監督官のサー・ボールドウィン・ウェイクウォーカー提督や、海軍省の議会次官ヘンリー・コリーの強い要請を受け、海軍本部委員会は1858年11月22日、ラ・グロワールとほぼ同等の木造装甲艦の設計要求を発した。

しかし、ウェイクウォーカーとその主任設計者のアイザック・ワッツには、資材として木材が適切であるとはどうしても考えられなかった。当時の木造船建造能力は既に最大サイズに達しており、また、最大の物の一部はすでに老朽化の徴候を示していた。そして、森林破壊による木材供給能力の低いイギリスの国土に関する深刻な問題と、現場からの速やかな建造が求められていることを考え合わせると(木造船より鉄製の船の方がはるかに早く建造でき、船体サイズも未知数であった)、もはや鉄製船殻の採用以外に選択の余地はなかった。また、重量を食う装甲板の採用によって複数の砲甲板を持つ構造は重心面においてトップヘビーを招くため実現不可能となり、結果としてラ・グロワールと同じく一層式の砲甲板に片舷17門の単装砲を15フィート間隔で並べることとなったため、砲列甲板の長さは長大なものとなった。所定の艦首部と艦尾部を加えると船体の長さは約380フィート(116 m)を必要とし、それは従来のいかなる軍艦よりも100フィート(30 m)も長かった。しかし、戦列艦時代のズングリとした艦形に比べ、新型装甲艦は縦に長いスマートな艦形となったために速力の向上に繋がった。

W・ブラウンリーは1985年の著書でウォーリアを「最初の近代戦艦」と呼び、また1987年の「サイエンティフィック・アメリカン」誌に、その革新的な特徴について述べている。

海軍本部の設計は1858年12月末に承認されたが、鉄製船殻に関する経験がないため、海軍本部委員会は国内の最も先進的な複数の鉄船造船会社に設計を依頼した。それらの設計は1859年4月に提出されたが、アイザック・ワッツはそのいずれも何らかの点で、自分自身の設計の基準に達していないと考えた。その結果、海軍本部の設計による新しい鉄製フリゲート建造の入札が行われ、ロンドンテムズ鉄工造船所が契約を獲得した。契約では進水を契約の11ヵ月後と取り決めていたが、それはあまりにも楽観的な日程だった。

ウォーリアの進水は1860年12月29日に行われたが、その年の冬は50年に一度という記録的な寒波に見舞われており、ウォーリアの船体は滑走台に凍りついてしまったため、6隻の曳船によって川に引き出された。竣工は1861年の10月24日で、費用は357,291ポンド(2006年の2千3百万ポンドに相当)であった。ウォーリアは1858年11月に建造が決定されてからちょうど35ヵ月後に就役した。
運用歴

ウォーリアは結局就役中に実戦を経験することはなかったが、本艦と姉妹艦のブラック・プリンスは、進水当時、世界最大最強の軍艦だった[1]。海軍技術の進歩は著しく、両艦とも10年後には第一線から退かざるを得なかった。1869年、ウォーリア、ブラック・プリンスと木造外輪フリゲート「テリブル」は特別に造られた乾ドック「バミューダ」を、マデイラ諸島からバミューダ諸島のアイルランド島まで大西洋を横断して曳航する任務を与えられた。この航海には39日を費やした[2]1875年4月1日、ウォーリアは予備艦隊に編入され、さらに1883年5月31日、時代遅れとなったことを理由に退役した。そして武装とマストを取り外された。

その後、ウォーリアは浮き倉庫(ハルク)として使用され、1902年から1904年にかけては、駆逐艦戦隊の倉庫船となった。1904年にはポーツマスのHMSヴァーノン(軍艦ではなく、イギリス海軍の魚雷学校。海軍は海軍に付随する沿岸施設にもHMSとつける習慣がある。)に所属して「ヴァーノンIII」と名を変えた。その役割は、やはりヴァーノンに付属するいくつかの船殻に蒸気電力を供給することだった。1923年10月に、ヴァーノンが新たに建設された沿岸施設に移転すると、ウォーリアとその他の船殻は不要となり、イギリス海軍は1924年にウォーリアを売りに出した。
老朽化ウォーリアの砲甲板(復元後)

ウォーリアにとっては幸運なことに、海軍が売却を決めた時は折りしも第一次大戦の終了により本艦よりも良質な鋼鉄を使用した近代軍艦が数多く解体されていたためにくず鉄需要が低下しており、本艦は商業的な関心を呼び起こすことなく、それから5年間ポーツマスに留め置かれた。結局、スクラップとして売却する計画は1929年3月に放棄され、新しい係留地であるウェールズのミルフォード・ヘイヴンにあるペンブローク・ドックに曳航された。到着と同時に「燃料油ハルクC77」とのみ呼ばれる燃料突堤兼作業員詰所となった。この時代時までには、ウォーリアの後継者のいくつかも似た運命をたどっていた。1909年には軍艦エジンコートと軍艦ノーサンバーランドが分解されて石炭ハルクとなり、1926年には軍艦ヴァリアントはハモズ(Hamoaze)の浮き燃料庫となっていた。

その後50年間、ウォーリアは、時折メンテナンスのために近くの乾ドックに曳かれて行くほかは、ラニオン・コーヴ(Llanion Cove)において沖合の燃料庫として使われ、1929年から1979年までに5,000隻近くの船に燃料を供給した。その間、イギリスの生き残りの装甲艦とその後継者である戦艦はすべてスクラップとして売却された。最後に残っていた同時代の船エジンコートも、ハリッジの石炭ハルクとしての50年のサービスの後、1960年に廃棄された。
救済ポーツマス港から見たウォーリアの艦尾と側面

ウォーリアは「海事トラスト(Maritime Trust)」の力によって廃棄の運命から救われた。


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