ウォーターゲート事件
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事件発覚の発端となったウォーターゲート・ビル

ウォーターゲート事件(ウォーターゲートじけん、アメリカ英語: Watergate scandal)とは、1972年に起きたアメリカ合衆国の政治スキャンダル[1]

1972年6月17日ワシントンD.C.民主党本部で起きた中央情報局(CIA)工作員による盗聴侵入事件に始まった、1974年8月9日にリチャード・ニクソン大統領が辞任するまでの盗聴、侵入、裁判、もみ消し、司法妨害、証拠隠滅、事件報道、上院特別調査委員会、録音テープ、特別検察官解任、大統領弾劾発議、大統領辞任のすべての経過を総称して「ウォーターゲート事件」という[注釈 1]
概要

事件の発端は、1972年の大統領選挙戦の最中に、何者かが、当時(共和党の当時のニクソン政権では)野党だった民主党本部が入ったワシントンD.C.のウォーターゲート・ビル[2]に盗聴器を仕掛けようとして侵入したが、警備員に発見され警察に逮捕されたことであった。

やがて犯人グループがニクソン大統領再選委員会(Committee to Re-elect the President, CREEPまたはCRP)の関係者であることが判明し、当初ニクソン大統領とホワイトハウスのスタッフは「侵入事件は政権には無関係」の立場をとったが、次第にワシントン・ポストなどの取材記事によりこの盗聴事件に政権内部が深く関与していることが暴露された。

さらに事件発覚時にホワイトハウスが捜査妨害ともみ消しに直接関わり、しかも大統領執務室でなされた会話全般のテープ録音が存在することを上院調査特別委員会が明らかにした。この録音テープの議会提出の拒絶や、事件調査のために設けられた特別検察官を政権が解任するなど(それに抗議して司法長官と司法副長官は辞任した)明白な司法妨害がなされた。

このようなニクソン政権の不正な動きに対して世論は猛反発し、やがて憲法の規定に基づく議会の大統領弾劾の勢いに抗しきれなくなり、アメリカ合衆国で史上初めて大統領が辞任するに至り、2年2ヶ月にも及んだ政治の混乱は終息した。
事件の経緯
不法侵入ウォーターゲート・ビルとコンプレックスの全景

1972年6月17日の午前2時、ワシントンD.C.にあるウォーターゲート・ビルの警備員フランク・ウィルズが、建物の最下部階段の吹き抜けと駐車場の間のドアのロック部分に、奇妙なテープが貼られているのに気づいた。このドアはガレージからの侵入を防ぐため、閉めると自動ロックされ、入れなくなるが、テープでロックがかからないようにしてあり、ノブを回すとドアは開いた。彼はテープをはぎ取ったが、10分後に戻ってみると、またテープが貼り直されていた。不審に思った彼がDC警察に通報したところから事件は始まる[3]

警察が到着し、刑事3人が同ビルの6階を借り切っていた民主党全国委員会本部オフィスの廊下に通じるガラスドアの錠が開いていることを確認して、拳銃を抜いて中に入り、内部に侵入していた5人の男を不法侵入で現行犯逮捕した。この5人の男とは、元中央情報局(CIA)のバーナード・バーカー、バージリオ・ゴンザレス、ユージニオ・マルチネス、ジェームズ・W・マッコード・ジュニア(逮捕時はエドワード・マーチンと名乗る)、そしてフランク・スタージスである。3週間前に盗聴器設置のために同オフィスへ侵入したが、盗聴器が正常に作動しないため、盗聴器を再設置するために再侵入したことが、彼らが撮った数枚の写真から判明した。二度も同じオフィスへ侵入を余儀なくされたことは、侵入犯のミスの中の最大のものであったが、彼らは更に致命的なミスを犯してしまった。
初動捜査

逮捕時はエドワード・マーチンと名乗っていた男が偽名で、本名はジェームズ・W・マッコード・ジュニア大統領再選委員会の警備主任であることが、翌日までに判明した[4]。彼はまたCIAの元工作員でもあった。そして彼らが投宿していたウォーターゲートホテルの室内から大金(100ドル紙幣53枚。締めて5300ドル)が見つかり、その出処に疑惑が広がった[5]

現行犯逮捕された5人のうち、3人はキューバ人で1961年のピッグス湾事件(第1次キューバ危機)に関与した退役軍人、1人は亡命キューバ人を訓練するCIA工作員、そして5人目は再選委員会のメンバーだった[6]

さらに警察が押収したユージニオ・マルチネスともう1人の手帳の中にホワイトハウス顧問チャールズ・コルソンの名前があった。またマルチネスの手帳にはさらにエヴェレット・ハワード・ハントの名前と自宅の電話番号が記され、しかも「HOUSE・WH」と記されていた[7]。ハントは、元FBI及びCIA職員で、その後ホワイトハウスの非常勤顧問を務めてこの年の3月に辞職したが、4月から勤めていた広告会社のオフィスはホワイトハウスのすぐ向い側のビルにあった[注釈 2]

ワシントン連邦地方検事局(アール・J・シルバート主任検事補ほか)は、マッコードとCIAとの関係の調査を始め、かつ大統領再選委員会との関係についても捜査を始めた。そして元ホワイトハウス顧問のハワード・ハントが捜査線に浮かび上がり、しかも彼はキューバに関わった元CIA工作員であった。侵入犯のメンバー3人がいずれも反カストロの亡命キューバ人であったことから、民主党本部盗聴―大統領再選委員会警備主任―亡命キューバ人―ホワイトハウス顧問という絡みに疑惑が膨らむばかりであった。5人の背後にハワード・ハントがいることはもはや明らかになった。侵入犯がニクソンに近い者と関係があるのではないかとの疑念が生まれた[8]

これに対し、6月19日にニクソンの報道官ロナルド・ジーグラーは、三流のコソ泥(third rate burglary)とコメントして、ホワイトハウスとは無関係であるとして一蹴した。また6月22日には大統領が「いかなることにせよ、この特殊な事件にホワイトハウスは関係していない」と声明を出している。

この「三流のコソ泥」とは、この侵入事件の犯人グループの行動を的確に表現したものと一方では皮肉られている。そもそも発見されるきっかけとなったドアのテープは、内部に入れば必要でない(室内からロックを解除できる)のにわざわざ取り付け直していること、最初に侵入して取り付けた電話が狙っていたものとは違う別の電話であったこと、この程度の作業で5人も侵入する必要がなかったこと、侵入時に手帳を所持していた結果ホワイトハウスとの結びつきが露見したこと、しかも大統領再選委員会の現職の人間を入れたことなど、「これはプロのする仕事ではない。ヘマなやり方だ」「どんな老いぼれ刑事でも集団で押し入ったりするヘマはやらない」[9]という専門家の声が事件直後の新聞に掲載された。このどこか軽い行動が逆に一般的な見方として、上層部の知らないところで現場の人間が軽はずみにやった犯行というイメージとなり、ニクソン政権には直接関係がないことと理解する向きが多く、大統領選挙にはまったく影響がなかった。
大陪審

6月30日、ワシントン連邦地方裁判所大陪審が始まった。5人の被告は侵入したことは認めたが、誰に頼まれたのか、金銭はどこからもらったのかなどの背後関係については一切口を閉ざしていた。事件発生から2週間が過ぎようとしていたが、ハワード・ハントは姿をくらまし行方不明であった。ところが5人の弁護を引き受けた若い弁護士が「私はハント氏ともう1人の人物から弁護を依頼されている」と証言して、大陪審からその「もう1人」とは誰かと追及されて、「弁護人と依頼人との特別な関係だから言えない」と答えた。この件について7月11日の第2回の大陪審でも追及された弁護士は黙秘権を行使、第3回の大陪審まで14時間も押し問答が続き、しびれを切らしたジョン・J・シリカ裁判長[注釈 3]が法廷侮辱罪で処罰すると宣言する結果となった。ほぼ同時進行で特捜部は、侵入犯のバーナード・バーカーの事務所の通話記録からワシントンのある電話番号に犯行当日12回も通話していることを発見し、この電話番号が大統領再選委員会財政顧問ジョージ・ゴードン・リディであることを突き止めた。バーカーは自供し、弁護士も「もう1人の人物」がリディであることを認めたためリディは逮捕され、ハントも大陪審に出頭して彼も逮捕された。こうして5人の背後にいたのが大統領再選委員会財政顧問と元ホワイトハウス顧問であったことが明らかになり、この7人の被告たちは後に「ウォーターゲート・セブン(watergate seven)」と呼ばれることとなった[10]
盗聴・侵入の背景

1972年6月という時点は、この年2月のニクソン訪中で米中の間でかつての厳しい対立から実務的に対話ができて強固な米中関係に進むことで、ベトナム戦争の終わりが見えてきた時期である。また5月のニクソン訪ソによってそれまでの米ソ協調体制がさらに順調に進み、ケネディ大統領の時代と異なる東西の緊張緩和(米ソデタント)を迎え、ニクソン外交が最も華やかに展開された時期でもある。また内政では前年夏のニクソン・ショックで懸案であったドルの切り下げを各国間の通貨の同時調整で実施し、内政・外交とも成果を挙げた時期であった。


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