ウォーキーン・アンドゥハー
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ホアキン・アンドゥハル

ウォーキーン・アンドゥハー
Joaquin Andujahヒューストン・アストロズ時代
(1976年)
基本情報
国籍 ドミニカ共和国
出身地サンペドロ・デ・マコリス
生年月日 (1952-12-21) 1952年12月21日
没年月日 (2015-09-08) 2015年9月8日(62歳没)
身長
体重6' 0" =約182.9 cm
180 lb =約81.6 kg
選手情報
投球・打席右投両打
ポジション投手
初出場1976年4月8日
最終出場1988年9月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


ヒューストン・アストロズ (1976 - 1981)

セントルイス・カージナルス (1981 - 1985)

オークランド・アスレチックス (1986 - 1987)

ヒューストン・アストロズ (1988)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ウォーキーン・アンドゥハー(Joaquin Andujar , 1952年12月21日 - 2015年9月8日 )は、ドミニカ共和国出身のプロ野球選手投手)。右投両打。
経歴

1969年に16歳でシンシナティ・レッズと契約したが、当時「Big Red Machine」と言われた最強チームではメジャーに昇格できず、チームがワールドシリーズ制覇を成し遂げた1975年10月にヒューストン・アストロズに移籍。1976年4月8日にメジャー初登板。その年は28試合に登板(うち先発25)し、9勝10敗防御率3.60、完投9、完封4とまずまずの成績を残す。11勝した1977年と12勝した1979年オールスター出場を果たすが、アストロズに在籍した5シーズンと少しで、2ケタ勝利はその2シーズンのみであった。広い本拠地アストロドームはピッチングには有利で、1981年までのアストロズ在籍中の被本塁打は9イニング平均で0.44本(1988年を含むと0.50本)であった。

1981年途中にセントルイス・カージナルスに移籍すると、素質が開花。移籍後は11試合の登板(うち先発8)で6勝をあげると、翌1982年には15勝10敗、防御率2.47の好成績でチームの地区優勝に貢献。ナ・リーグチャンピオンシップシリーズ(対アトランタ・ブレーブス、当時は5回戦制)では、2連勝後の第3戦に先発して勝利投手となり、リーグ優勝を決める。ミルウォーキー・ブルワーズとのワールドシリーズ(当時ブルワーズはア・リーグ所属)でも、第3戦に先発して勝利投手となり、3勝3敗で迎えた最終第7戦でも先発して勝利投手となり、ワールドシリーズ制覇に貢献した。1983年は6勝16敗に終わるが、1984年はリーグ最多の20勝をあげ、5年ぶりにオールスターにも出場。また、ゴールドグラブ賞カムバック賞も獲得して、最高のシーズンとなった。

1985年には、ピッツバーグ薬物裁判に関連してコカインの所持・服用が発覚し、出場停止処分を受ける(減俸処分を受けること、一定時間の社会奉仕活動を行うこと、抜き打ちの麻薬検査に応じ、再使用が認められた場合はより重い処分を受けるという条件をクリアし、処分は免除)。それでも2年連続の20勝(21勝12敗)をあげて、チームの地区優勝・リーグ優勝に貢献。カンザスシティ・ロイヤルズとのワールドシリーズでは連勝後の第3戦に先発して敗戦投手となる。チームは第4戦に勝って3勝1敗と王手をかけるが、第5戦に敗れ、第6戦も一塁塁審ドン・デンキンガーの「世紀の誤審」で敗れる。第7戦はそのデンキンガーが球審となったが序盤からロイヤルズ打線が爆発。0-11と敗色濃厚となった5回にアンドゥハーが登板。ストライクと思えた初球をデンキンガーが「ボール」と判定。これに激昂した監督ホワイティ・ハーゾグが退場処分となりアンドゥハーも2球目を投げた後に抗議して退場処分となる。これによって1986年開幕から10試合(のちに5試合に短縮)出場停止処分を受けた。

チームはアンドゥハーをオークランド・アスレチックスに放出。1986年は12勝7敗に終わる。しかも、DH制があって投手が打席に立たなくても良いア・リーグ所属にもかかわらず行った打撃練習で負傷し、投球フォームを崩す。


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