ウォルト・ホイットマン
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ウォルト・ホイットマン
ウォルト・ホイットマン(1887年)
誕生1819年5月31日
アメリカ合衆国 ニューヨーク州ロングアイランド、ハンティントン、ウェスト・ヒルズ
死没 (1892-03-26) 1892年3月26日(72歳没)
アメリカ合衆国 ニュージャージー州カムデン
ウィキポータル 文学
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ウォルター・ホイットマン (英語: Walter Whitman, 1819年5月31日 ? 1892年3月26日) は、アメリカ合衆国詩人随筆家ジャーナリストヒューマニスト超越主義から写実主義への過渡期を代表する人物の一人で、作品には両方の様相が取り込まれている。アメリカ文学において最も影響力の大きい作家の一人でもあり、エミリ・ディキンソン(1830年 - 1886年)と並んでアメリカ独自の詩の創始者とみなされており[1]、しばしば「自由詩の父」と呼ばれる[2]

ニューヨーク州ロングアイランドに生まれ、ジャーナリスト、教師、公務員として働き、南北戦争に志願看護師として従事する傍ら、詩を出版する。活動初期には、禁酒運動小説 Franklin Evans (1842年) も発表している。初め1855年に自費出版されたホイットマンの代表作『草の葉』(英語版)は、アメリカの叙事詩を市井の人々に届けようという試みであった。 ホイットマンは1892年の死まで、この作品の拡充、改訂を重ねた。それぞれの版には、時代の風潮や作者の思想の変化が反映されている。初版の巻頭詩「ぼく自身の歌」が最も広く知られている。

晩年、卒中に倒れた後は、ニュージャージー州カムデンに移り、72歳で没す。その葬儀は盛大なものであった[3][4]

ホイットマンはその詩作と同時に、セクシュアリティの点からもよく話題にされる。通常は同性愛者あるいは両性愛者とされるが[5]、ホイットマンが実際に男性と性的関係を持ったことがあったかは明らかでない[6]。ホイットマンは生涯を通じて政治に関わり、ウィルモット条項を支持し、基本的には奴隷制度維持に反対していたが、奴隷廃止運動には賛同しなかった。

日本では夏目漱石によって紹介された[7]
生涯と作品
幼少年期

ウォルター・ホイットマンは1819年5月31日ニューヨーク州ロングアイランド、ハンティントン、ウェスト・ヒルズにて、クエーカー教徒の両親、ウォルターとルイザ (Louisa Van Velsor Whitman) のもとに生まれた。9人兄弟の2番目であったウォルターは[8]、父と区別するために、すぐに「ウォルト」という愛称をつけられた[9]。父ウォルターは7人の息子のうち3人までにアメリカ合衆国の指導者の名前をつけている。すなわち、アンドリュー・ジャクソン、ジョージ・ワシントン、トマス・ジェファソンである。その他に、長男のジェシー (Jesse)、6か月で夭逝した男子、そして末男エドワードがいる[9]。ウォルトが4歳の時、一家はウェスト・ヒルズからブルックリン区に移り、投資の失敗も一因となって住む家を転々とした[10]。ホイットマンは幼少期を、家庭の経済的困窮のために、全般的に落ち着かなく、不幸せな時代だったと回顧している[11]。そんな中にあった幸せな瞬間の一つが、1825年7月4日の独立記念祭で、ラファイエットに高く抱き上げられ、頬に接吻を受けた時であったと述べている[12]

11歳で正式な学校教育を終え[13]、家庭の経済事情から、仕事を始める。初めは2人の弁護士の雑用係として、次いでロングアイランドの週刊紙『パトリオット』(Patriot、編集長はサミュエル・クレメンツ (Samuel E. Clements))の印刷見習工として働き[14]、ここで印刷機や組版について学んだ[15]。時には埋め草に「ほろっとくる小話」 (sentimental bits) を書いたこともあったかもしれない[16]。その後、クレメンツが2人の友人とともに、エリアス・ヒックスの死体を掘り返し、頭部の石膏型を作ろうとして騒動になるということが起きる[17]。この騒動の余波か、直後にクレメンツは『パトリオット』を去った[18]
創作活動初期

その次の夏、ホイットマンはブルックリンの別の印刷職人、エラストゥス・ウォルシントン (Erastus Worthington) のもとで働く[19]。春に一家はウェスト・ヒルズに戻ったが、ウォルトはブルックリンに留まり、ホイッグ党系の有力週刊紙『ロングアイランド・スター』 (Long-Island Star) 編集長のアルデン・スプーナー (Alden Spooner) の店で働き始めた[19]。『スター』にいる間に、ホイットマンは地元図書館に足繁く通い、街の弁論会に入り、劇場にも足を運ぶようになる[20]。そして、『ニューヨーク・ミラー』紙上に匿名で作品をいくつか発表する[21]。16歳を迎えた1835年5月、ホイットマンは『スター』を、そしてブルックリンを去り[22]ニューヨークにて植字工になる[23]。職場がどこであったか思いだせないと、後年ホイットマンは語っている[24]。その後も仕事を探したが、印刷出版業集積地域での大火事[24]および1837年恐慌に至る不況が重なり、難航した[25]。1836年5月、ロングアイランド・ヘムステッドに住んでいた家族のもとに戻る[26]。1838年春まで、断続的に方々の学校で教鞭をとったが、教職には満足していなかった[27]

教職をしばらく試した後、ニューヨーク・ハンティントンに戻り、自身の新聞『ロングアイランダー』 (Long-Islander) を創刊する。ホイットマンは出版者、編集者、印刷工、販売、配達までをすべて自ら担った。10ヶ月後、出版所を E. O. Crowell へ売り渡し、Crowell による最初の号は1839年7月12日に出版された[28]。ホイットマンが出版した『ロングアイランダー』は一部も残っていない[29]。1839年夏、ホイットマンはジャマイカ地区の『ロングアイランド・デモクラット』 (Long Island Democrat、編集長 James J. Brenton) の植字工となるが[28]、すぐにこの職を去り、1840年冬から41年春にかけて再び教壇に立ち、その後5月にはニューヨークへ移った[30]。ニューヨークでは主に『ニューワールド』紙にて、詩人でジャーナリストのパーク・ベンジャミン・シニアや批評家ルーファス・ウィルモット・グリスウォルドのもとで下働きをした[31]。その後1940年代は、ブルックリン・イーグル紙で2年間編集に携わるなどさまざまな新聞社を転々としつつ、散文や詩をフリーランスで発表しつづけた[32]
草の葉ウォルト・ホイットマン、37歳。『草の葉』、Fulton St., Brooklyn, N.Y. の口絵。ガブリエル・ハリソンによるダゲレオタイプ(原本逸失)を基とするサミュエル・ホルヤーによる鉄版画

ホイットマン自身の言によれば、何年ものあいだ「普通の報酬」 (the usual rewards) のために働いた後、彼はついに詩人になることを決意した[33]。当初は、当時の文学趣味に合わせたさまざまな大衆的文学のジャンルを試していた[34]。詩集『草の葉』の原型となる作品は、すでに1850年に着手しており[35]、生涯、手を加えつづけることとなる[36]。ホイットマンが書こうとしたのは、真にアメリカ的な叙事詩であり[37]、聖書の韻律を利用した自由詩の形式を用いた[38]。1855年6月末、ホイットマンは『草の葉』の初版を見せて兄弟を驚かせた。弟ジョージは「読むに値しないと考えた」[39]

ホイットマンは『草の葉』初版を自費で刊行し[39]、地元のとある印刷所にて商売の合間に印刷してもらい[40]、795部を刷った[41]。初版では題名のない12編の詩を収めたわずか95ページの小冊子であった。作者名は記されていなかったが、代わりにサミュエル・ホルヤー (Samuel Hollyer) によるホイットマンを描いた版画が口絵に掲載されていた[42]。『草の葉』はラルフ・ワルド・エマーソン(ノガワカ)から高い評価を受け、エマーソンはホイットマンに5ページに及ぶ称賛の手紙を書き、また友人たちの間でも絶賛した[43]。このエマーソンの評価のおかげもあって[44] 、『草の葉』初版は広い範囲で読まれ、相当の関心を獲得したが[45]、同時にその「わいせつ」性についての批判も一部から受けた[46]。地質学者ジョン・ピーター・レスリーはエマーソンに書いた手紙の中で、『草の葉』は「くずで、卑俗、わいせつ」 (trashy, profane & obscene) で、著者は「もったいぶったばか」 (a pretentious ass) だと記している[47]。1855年7月11日、『草の葉』刊行の数日後、ホイットマンの父は65歳でこの世を去った[48]

『草の葉』は、初版刊行後からの数か月の間に、性的に不適切な側面への注目が強まった。このことから、すでに印刷、製本されていた第二版の売り出しを、出版者が拒否する寸前にまで至ったが[49]、最終的には、20篇の詩を新たに追加した第二版が1856年8月に発売された[50][51]。1860年[52]、次いで1867年に改訂、再版を重ね、ホイットマンの生涯を通じて更に数度の改訂が行われた。エイモス・ブロンソン・オルコット(『若草物語』のルイーザ・メイ・オルコットの父)やヘンリー・デイヴィッド・ソローなど幾人かの著名な著作家は、わざわざホイットマンを訪ねるほどこの作品を評価した[53]。ドイツの詩人フェルディナント・フライリヒラートは初版の頃からホイットマンに着目し、ドイツ語訳を進め1868年に発表している。

『草の葉』の最初の数版の刊行の時期、ホイットマンは経済的に困難な状況に陥り、再びジャーナリストとして働かざるを得なくなった。1857年5月からは、ブルックリンの『デイリー・タイムズ』(Daily Times) に勤務し[54]、編集者として紙面を監修、書評、社説を執筆した[55]


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