ウォルター・ランツ
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ウォルター・ランツ
ウッディー・ウッドペッカーとともに写る1990年のランツ。
生誕ウォルター・ベンジャミン・ランツ
1899年4月27日
アメリカ合衆国、ニューヨーク州ニューロシェル
死没 (1994-03-22) 1994年3月22日(94歳没)
アメリカ合衆国、カリフォルニア州バーバンク
死因心不全
国籍 アメリカ合衆国
職業漫画家、アニメーター、映画プロデューサー、映画監督、俳優
活動期間1916年 - 1982年
代表作ウッディー・ウッドペッカー
配偶者ドリス・ホリスター(1930年 - 1940年)
グレース・スタッフォード(英語版)(1940年 - 1972年)
子供1名
受賞アカデミー名誉賞(1979年)
ウィンザー・マッケイ賞(1973年)
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ウォルター・ベンジャミン・ランツ(Walter Benjamin Lantz、1899年4月27日 - 1994年3月22日[1])は、アメリカの漫画家、アニメーター、映画プロデューサー、映画監督、俳優であり、ウッディー・ウッドペッカーの原作者として有名である[2][3]。
彼が創設したウォルター・ランツ・プロダクションズ(Walter Lantz Productions)は1928年から1972年まで存在したアニメーション制作会社で、ユニバーサルにアニメーション作品を提供していた。現在この会社は新設のユニバーサル・アニメーション・スタジオの子会社として、過去のキャラクターや作品の著作権を保存するために名前のみで存在している。
このスタジオは元の名をユニバーサル・スタジオ・カートゥーンスといい、アニメーション作品を外部の会社に委託する社の方針にうんざりしたカール・レムリが立ち上げたものだった。レムリの自動車の運転手でブレイ・プロダクションズ(英語版)でアニメーションの経験を積んできたランツは、会社の経営を任されるようになる。
1935年に、スタジオはユニバーサルから分離してウォルター・ランツ・プロダクションズとして独立した。1939年に、ランツは作品の著作権を手に入れた。ランツは1947年までと1951年から1972年までユニバーサルに、1948年から1950年までユナイテッド・アーティスツにアニメーション作品を提供した。
ウォルター・ランツ・プロダクションズで成功した作品には、ランツが原作のウッディー・ウッドペッカー、アンディ・パンダ、チリー・ウィリーのほかに、オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット、音楽を主体にしたスウィング・シンフォニーやスウィング・ミュージックがある。
生涯
ユニバーサルに入社するまでランツはカリトリ出身のイタリア系移民の子としてニューヨーク州ニューロシェルに生まれた。ジョー・アダムソンの著書The Walter Lantz Storyによれば、Lantzという姓は、両親が移民してきた際に入国審査官に英語風の姓として与えられたものだという。ランツは常に絵画に興味を持ち、12歳で通信の絵画学校を修了している。また、ウィンザー・マッケイの恐竜ガーティを見て影響を受けた。
自動車業界で働いていたとき、客であるフレッド・カフカがガレージの掲示板に書かれている彼の絵を気に入り、アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークの学費を支援してくれた。また、カフカはランツがウィリアム・ランドルフ・ハーストが経営するニューヨーク・アメリカンで印刷業務に従事することを助けた。ランツは昼間は新聞社で働き、夜間は絵画学校に通った。
ランツは16歳になると、グレゴリー・ラ・カヴァの元でアニメーション担当として働くようになった。その後、ブレイ・プロダクションズでJerry On The Jobシリーズに携わった。1925年にはDinky Doodleシリーズ(シンデレラ、赤ずきんなどの昔話を含む[4])の監督、作画、声優となり、ハル・ローチ
(英語版)やマック・セネットらの実写映画との競争を試みていたブレイ・プロダクションズのプロデューサーに就任したが、すぐにバーノン・ストールズ(英語版)に取って代わった。ブレイ・プロダクションズは1927年に広告映画制作会社になり、ランツは友人ロバート・G.ヴィニョーラ(英語版)との議論の結果、ハリウッドへ移ることにした。ハリウッドでランツはピント・コルヴィッグとともに自らのアニメーションスタジオを立ち上げようとしたが、受け入れられそうになかった。ランツはフランク・キャプラやマック・セネットの元で働いたり[5]、カール・レムリの車の運転手として働いたりもした。
ユニバーサル・カートゥーン・スタジオ時代1929年初めに、ユニバーサルはウォルト・ディズニー原作のオズワルド・ザ・ラッキー・ラビットのカートゥーンをチャールズ・ミンツ
(英語版)やジョージ・ウィンクラーに作らせて配給していた。しかし、低予算で作られたため人気は低かった。そのため、レムリはミンツらを解雇し、新たなカートゥーン・スタジオの社長を探し始めた。ランツは賭けポーカーで社長の座およびキャラクターの所有権を得た。
ランツはトム・パーマー(英語版)(アニメーター)やバート・フィスケ(ウィンクラー・スタジオ出身の音楽家)らを最初のスタッフとして雇った。なかでもアニメーターのビル・ノーラン(英語版)は重要で、会社の成長を助けた。ノーランはパノラマ背景の発明や、新しく合理化されたフィリックス・ザ・キャットを制作し、アメリカのアニメーションの基礎となった「Rubber hose animation」(腕、場合によっては脚を単純で流れるような曲線かつ関節がないように描くスタイル)を手がけたことで知られている。後に雇ったスタッフとしてはピント・コルヴィッグやフレッド・アヴェリーがいる。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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