この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "ウォルター・ピストン"
ウォルター・ピストン
生誕 (1894-01-20) 1894年1月20日
アメリカ合衆国、メイン州ロックランド
死没 (1976-11-12) 1976年11月12日(82歳没)
アメリカ合衆国、マサチューセッツ州ベルモント(英語版)
学歴マサチューセッツ芸術大学
ジャンル近代音楽
職業作曲家、音楽教師
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽
ウォルター・ピストン(Walter (Hamor) Piston (Jr.)、1894年1月20日 - 1976年11月12日)は、アメリカ合衆国の作曲家、音楽教師。 メイン州ロックランド出身。祖父はジェノヴァ出身の航海士で元の名をアントニオ・ピストーネといい、アメリカに移民したのを機に、英語風にアンソニー・ピストンと名を改めた。1905年に父ウォルター・ピストン・シニアは、家族連れでボストンに移住した。後の作曲家であるウォルター・ジュニア(以下ピストン)は、ボストンの工業高等学校に進学してエンジニア教育を受けるが、やがて芸術を志すようになり、1912年にそこを卒業してから、マサチューセッツ芸術大学に進み、美術を専攻しながら、建築デザインやアメリカ史を修めた。同窓生キャスリン・ネイソンとは、後にユニテリアン派教会で結婚式を挙げている。 ピストンは弟エドワードと共に、(ヴァージル・トムソンと同じく)ハリス・ショー
生涯
ハーヴァード大学を最優等で卒業して程なく、ピストンはジョン・ノウルズ・ペイン記念研究旅行奨学金が授与され、数年間の留学費用として例年1500ドルを授与されることとなった。ピストンはフランス留学を選び、1924年から1926年までパリに滞在した。エコールノルマル音楽院に入学し、ヴァイオリンをジョルジュ・エネスコに、作曲をポール・デュカスとナディア・ブーランジェに師事、ブーランジェには対位法の薫陶も受けた。この間、イタリアにも訪問している。1925年にヨーロッパで作曲された《フルート、クラリネット、ファゴットのための3つの小品》は、ピストンの最初の出版作品となった。
帰国後はマサチューセッツ州ベルモントに住み、1926年から1960年に引退するまで母校ハーヴァード大学で教鞭を執った。門人にサミュエル・アドラー、ルロイ・アンダーソン、アーサー・バーガー、レナード・バーンスタイン、エリオット・カーター、アーヴィング・ファイン、ジョン・ハービソン、フレデリック・ジェフスキー、ハロルド・シャピロらがいる。
1936年にCBSの委嘱により、アーロン・コープランドやルイス・グルーエンバーグ、ハワード・ハンソン、ロイ・ハリス、ウィリアム・グラント・スティルらとともに、同局のラジオ放送向けの新作を手がけることになる。ピストンは、ラジオ番組には小編成のオーケストラが似つかわしいと判断し、《ピアノと室内オーケストラのための小協奏曲》を提出した。翌1937年、《交響曲 第1番》はボストン交響楽団により1938年4月8日に初演される。
指揮者アーサー・フィードラーの求めに応じてボストン・ポップス・オーケストラのために作曲されたのが、ピストンの代表作かつ最も有名なバレエ音楽≪不思議な笛吹き≫。シェーンベルクに十二音技法を学んでからは、オルガン曲≪バッハの名による半音階的練習曲≫を作曲した。第二次世界大戦中はベルモントの空軍に所属し、ファンファーレなどの愛国的な作品を作曲した。
1943年には、コロンビア大学アリス・ディットソン基金の委嘱により《交響曲 第2番》を作曲した。これは翌1944年3月5日にワシントン・ナショナル交響楽団により初演され、ニューヨーク音楽評論家サークル賞を授与された。《交響曲 第3番》と《交響曲 第7番》はピューリッツァー賞に輝き、《ヴィオラ協奏曲》と《弦楽四重奏曲 第5番》によって再びニューヨーク音楽評論家サークル賞を受賞している。
ピストンの著作はいずれも音楽理論書で、『対位法』『管弦楽法』『和声論』の3冊がある。