ウォルター・バジョット
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ウォルター・バジョット
Walter Bagehot
バジョットを描いた肖像画
(作:ノーマン・ハースト)
生誕 (1826-02-03) 1826年2月3日
イギリスサマセット、ラングポート(英語版)
死没1877年3月24日(1877-03-24)(51歳)
イギリスサマセット、ラングポート(英語版)
国籍 イギリス
出身校ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン
職業

ジャーナリスト

評論家

経済学者

政党自由党[1]
署名

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ウォルター・バジョット(: Walter Bagehot,[?bad??t] BAJ-?t, 1826年2月3日 - 1877年3月24日)は、イギリスジャーナリスト評論家経済学者思想家。主著に『イギリス憲政論』、『ロンバード街』がある。
人物

1826年にサマセット州ラングポート(英語版)で銀行家の一人息子として誕生した[2]ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンに進学して数学を専攻した[3]。25歳の時、パリへの旅行中、ルイ・ナポレオンクーデターを目撃した。この体験が契機となり、エドマンド・バーク保守主義の政治思想に傾倒した[2]

評論家としては、政治・経済・社会・文芸・歴史・人物と幅広い分野を対象とした。主著の『イギリス憲政論』は、君主制擁護論として事実上、不文憲法であるイギリス憲法の一部として扱われ、バークの『フランス革命の省察』に次ぐ、イギリス政治学の古典となっている。

35歳から51歳で死去するまでの期間、『エコノミスト』紙の編集長を務めた。庶民院に立候補して大敗を喫したものの、ヴィクトリア朝の重要な政治経済評論家として英国金融界に大きな影響力を持っていたため、「第二の財務大臣」と評された[2][4]

1860年代に家庭環境が悪化、その後のバジェットは偏頭痛や体調不良に悩まされることが増えた[5]。1877年に生まれ故郷のラングポートにて死去した。風邪が原因であったとされる[2][6]
家族・私生活

1858年に、エリザベス・ウィルソン(Elizabeth Wilson、1832年?1921年、ジェイムズ・ウィルソン(英語版)の娘。『エコノミスト』紙創設者)と結婚した。当初は大変仲睦まじかったというが、夫妻に子はなかった[7]。その後、1860年代に母の病状が悪化すると、バジェット夫妻の間にも介護や仕事を巡って次第に溝ができた。常に評論の締め切りに追われていたバジェットであったが、母の死後はますます家庭を顧みなくなったという[5]

バジョットの死後、1933年に夫妻のラブレターが取りまとめられて、出版された[8]
バジョット・ルール

大手決済銀行オーバレンド・ガーニー商会(英語版)破綻に端を発した1866年恐慌(英語版)に際しては、「中央銀行の意義は貨幣(ポンド)の価値を維持せしめることであり、貸し渋れば厖大な取り付け騒ぎが起こりうる」と提言した結果、イングランド銀行(ヘンリー・ホランド(英語版)総裁)にその意見が容れられて、「流動性危機(英語版)」を回避し、恐慌収束に一役買っている[注 1][4][9][10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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