その他の同名の人物については「ウォルター・スコット (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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初代准男爵サー・ウォルター・スコット(Sir Walter Scott, 1st Baronet, 1771年8月15日 - 1832年9月21日)は、スコットランドの詩人、小説家。ロマン主義作家として歴史小説で名声を博し、イギリスの作家としては、存命中に国外でも成功を収めた、初めての人気作家といえる。 1771年、エディンバラに生まれる。父は同名の弁護士ウォルター・スコット、母のアン・ラザフォードはエディンバラ大学医学部教授ジョン・ラザフォード
生涯と作品
生い立ち
ゲーテ、ビュルガー(ドイツ語版)、シラーなどドイツのロマン派文学に惹かれ、1796年にビュルガーの『レノーレ』、1799年にゲーテ『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の英語訳を出版した。次いで『ミンストレルジー・オブ・スコティッシュ・ボーダー』を出版する。1797年にはフランス革命戦争に備えて騎兵義勇隊を結成して訓練に励んだ。この年、兄や友人とイングランド西北部のカンバーランドへ旅行し、そこでフランスからの亡命者ミス・シャーロット・シャーパンティアに出会って結婚して、この地に住み、翌年にはエディンバラの南のラスウェイド(英語版)に移った。1799年にはセルカーク州知事代理に任命される。 かつての級友で出版事業を営むジェームズ・バランタイン
詩作時代
1805年に出版した物語詩『最後の吟遊詩人の歌』がワーズワースを初めとして評価され、名声を高めた。17世紀の詩人ジョン・ドライデンの全集の編集を行いながら、物語詩、叙事詩の創作に力を注ぎ、『マーミオン』『湖上の美人』などを発表する。1811年にアボッツフォードの邸宅(英語版)を購入した。
1813年にヘンリー・ジェイムズ・パイの後を受けて桂冠詩人に擬せられたが、これを辞退して後輩のロバート・サウジーを推薦した。
小説の時代エディンバラにあるスコット記念塔
戦争の影響でバランタインの出版社の経営が悪化し、救済のために歴史小説『ウェイヴァリー』を1814年に無署名で発表、これが好評だったために、その後次々と歴史小説を発表する。続く作品で「ウェイヴァリーの著者によって」と巻頭に記したことから、スコットの小説の総称として「ウェイヴァリー小説群 (Waverley Novels)」という呼び名が生まれた。1820年にジョージ4世からサーの称号を与えられ、また同年エディンバラ学士院(英語版)院長に推戴された。
バランタインの出版社は1826年に破産を宣告され、スコットはその債務の返済のために作品を書き続け、大作『ナポレオン伝』(1827年)などを執筆した。1830年に卒中を起こし、1831年に保養のためナポリに滞在したが、数か月後に孫の死を知ってアボッツフォードに帰郷し、その数週間後に死去した。ドライバラ寺院(英語版)のスコット家墓地に葬られた。
代表作として叙事詩『湖上の美人』(1810年)、歴史小説『ウェイヴァリー(英語版)』(1814年)、『ロブ・ロイ(英語版)』(1817年)、『ランメルモールのルチア』の原作となった歴史小説『ランマームーアの花嫁(英語版)』(1819年)、『アイヴァンホー』(1820年)など。「ウェイヴァリー小説」の作者であることを公表したのは1827年にだった。『ミドロジアンの心臓』(1818年)はポーティアス騒動(英語版)におけるヘレン・ウォーカーという実在した女性の行動を題材にしたもので、スコットはその後の1831年に、ヘレンの埋葬されているアイアングレーの教会墓地に墓石を建て、墓碑銘を刻んだ[1]。
ウォルター・スコットの肖像はスコットランド銀行発行のすべての紙幣に使用されている。
ペンネームで執筆することを好み、"The Great Unknown"と呼ばれた。スコットを「現代のシェイクスピア」と慕っていたワシントン・アーヴィングも、スコットに倣ってペンネームを多用した。
アボッツフォード邸アボッツフォード, ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット1844年撮影
スコットは1811年にスコティッシュ・ボーダーズの真ん中メルローズ近郊に110エーカーの土地を購入し、翌年から移住し、1824年にゴシック調の大規模な邸宅を完成させ「アボッツフォード邸(英語版)」と呼んだ。この邸宅はヴィクトリア朝時代の建築に大きな影響を与えたと言われている。ワシントン・アーヴィングは、イギリス滞在中の1817年に、詩人トマス・キャンベル(英語版)の紹介状を得てアボッツフォード邸を訪問し、その時の随想『ウォルター・スコット邸訪問記』[2](Abbortsford、『クレヨンの雑録集』(The Crayon Miscellany, 1835年)所収)を執筆した。