ウォルター・シッカート
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ウォルター・シッカート
Walter Sickert
1911年当時のシッカート
本名Walter Richard Sickert
誕生日1860年5月31日
出生地 バイエルン王国ミュンヘン
死没年 (1942-01-22) 1942年1月22日(81歳没)
死没地 イングランドバース
国籍 イギリス
運動・動向印象派, モダニズム
芸術分野画家
教育スレイド美術学校
代表作倦怠、カムデン・タウンの殺人など
影響を与えた
芸術家ホイッスラー
エドガー・ドガ
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ウォルター・リチャード・シッカート(Walter Richard Sickert、1860年5月31日 - 1942年1月22日)は、イギリスヴィクトリア朝時代の画家である。

印象派の影響を受け、20世紀アバンギャルド芸術のブリティッシュ・スタイルに影響を与えた。著名人の写真などから描いた肖像画なども発表している。

また、1880年代後半からロンドンの下町イーストエンドで発生した切り裂きジャックによるとされる連続猟奇殺人事件ホワイトチャペル殺人事件」の真犯人ではないか、とする仮説が提唱されていることでも有名である。

評論家の山田五郎によると、画家としては日本ではほとんど無名だが、英国では教科書に掲載されるレベルだという[1]
生い立ち

シッカートは、デンマークドイツ人漫画雑誌イラストレーターであった父親と、イギリス人の母親の間に生まれた[2]。生誕時は両親と6人兄妹の家族はドイツミュンヘンで生活していた。その後、1868年にイギリスに移住する。

父方の祖父もデンマークでは名の知れた画家であり三代にわたっての画家となる。また、ウォルターの妹のヘレナ・シッカートはやがて著名なフェミニズム活動家となり自伝も残している。
芸術活動
青年期シッカート作ヘレン・カート(1885年)

18歳で学校を卒業したシッカートは、当初舞台俳優を目指し、ヘンリー・アーヴィングの元で働きながら演劇を学び始める。しかし4年ほどで辞めて、1881年スレード美術学校に入学し美術を学び始める。

シッカートはジェームズ・マクニール・ホイッスラーに出会い、強い影響を受けて彼のアシスタントを務めるようになった。また、後に結婚後パリで創作活動をすることが多かった彼はエドガー・ドガとも出会い、影響を受ける。2人の影響でシッカートの作風は当初は印象派に分類される[3]。特にドガの助言は彼に影響を与え、また友情はドガが亡くなる1917年まで続いた。

1880年代後半のデビュー当時のシッカートの作品は、舞台演劇の描写や、背景にに映った空間を描き出すなど写実主義的なものが多かった。1885年、彼は政治家の娘エレンと最初の結婚をし、多くの時間をフランスディエップ (セーヌ=マリティーム県)で過ごしていた[2]1894年1904年にシッカートはヴェネツィアを訪れ、当地の風景画を残している。特に1903年から1904年は著作のためにヴェネツィアを旅行しており、売春婦をモデルとしたと思われる絵画などを多く制作した[3]

1893年にはシッカートはホイッスラーの援助下でロンドンで美術学校を始める。また彼の絵画は1886年ロイヤル・アカデミーに対抗する形で若手の画家たちで設立されたニュー・イングリッシュ・アート・クラブで多く展示された。1889年に開催されたイギリスの印象派展覧会にも出品した。そのため、彼の作品は1894年1895年にはオーブリー・ビアズリーが美術担当編集主任を務める「イエロー・ブック」にも寄稿された[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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