『ウェンセスラスはよい王様』(ウェンセスラスはよいおうさま、英語原題:Good King Wenceslas)は良く知られたクリスマス・キャロルである[1]。艱難を越えて、貧しい者に慈善を施すウェンセスラス王の行為と聖徳が称えられた歌である。日本では、「慈しみ深き王ウェンセスラス」のタイトルでも知られる。 うたは、スティヴンマス(聖ステパノスの聖日、12月26日)の凍り付くばかりに寒い夜に、城の物見から外を見た王が、遙か彼方に小さな人影が、暖房の為の薪を集める姿に気づくところから始まる。小姓を呼んで「あれは何者か」と問うた王に、小姓は、「あれは聖アグネスの泉の傍らに住む小作農民です」と答える。 ウェンセスラス王はこの目出度い季節に、困窮している農民の姿に哀れみを覚え、善意の贈り物を与えることを思いつく。肉、葡萄酒、松材の薪を小姓に持って来させ、それらを携え、小姓と共に、遙か遠くの目的地目指す。しかし雪の深く積もった道は歩くのが困難で、身を切るばかりの寒風が吹きすさび、二人を凍りつかせる。小姓は、「もはや進めません」と王に訴える。 王は、「小姓よ元気を出せ。余が先に歩いて道を造ろう。そなたは、余の足跡の上を踏んで進めば、歩きやすいであろう」。王の言葉に従ってその足跡の上を歩くと、そこは雪が溶けて芝生の土となっており、暖かさが生まれているという奇蹟が生じる。聖なるウェンセスラス王の足跡を辿るものは、貧しい者に慈善を行い、それによって人は自分自身もまた幸いな者となるのである。こうして、うたはキリスト者の徳行を奨める言葉で終わる。 このうたのチューンは、13世紀の「春のキャロル」である「Tempus Adest Floridum 」(ラテン語で、「いまや花開く時ぞ」)に付けられていたもので、キャロルが最初に公刊されたのは、スウェーデン乃至フィンランドの『ピエ・カンツィオーネス(敬虔歌集)』(Piae Cantiones
概説ヴァーツラフ1世騎馬像
うたの内容
曲と歌詞
1853年に、駐ストックホルム英国女王使節兼公使の G・J・R・ゴードン( G. J. R. Gordon )が、1582年版の「Piae Cantiones 」の稀覯書を、ジョン・メイソン・ニール師(Reverend John Mason Neale?サセックス州、サキヴィル大学監督官, warden of Sackville College)とトーマス・ヘルモア師(Reverend Thomas Helmore?ロンドン・チェルシー、聖マーク大学副学長)に提供した。この時点まで、イングランドではこの書籍はまったく知られていなかった。
ニールは幾つかのキャロルと聖歌を英語に翻訳し、1853年には、ニールとヘルモアは12篇のキャロルに加え、「Piae Cantiones 」から採用した旋律を含む書籍『クリスマス時節のキャロル(Carols for Christmas-tide )』を出版した。更に翌1854年にも、12篇のキャロルを含む書籍『イースター時節のキャロル(Carols for Easter-tide )』を出版した。書籍の出版の契機となった本『Piae Cantiones 』は、現在、ロンドンの大英博物館が所蔵していると云われる。
うたの歌詞は、こうした経緯においてニール(1818年?1866年)によって作詞されたものである。ニールは、おそらくずっと早い時期に聖歌の歌詞を書いていたのだと思える。彼はうたの元になった物語を、『Deeds of Faith(信仰の行い)』と関連付けた。
歴史上のウェンセスラス王ボヘミア公ヴァーツラフ1世騎馬像
このうたのウェンセスラス王は、歴史的に実在したボヘミア公聖ヴァーツラフ1世がモデルとなっている。ヴァーツラフ1世は907年に生まれ、935年9月28日に暗殺された(929年死亡説もある)。ボヘミア公ヴラチスラフ1世の息子で、当時キリスト教の教線がボヘミア地方にも達し、父はキリスト教の信仰のなかに育ち、ヴァーツラフ1世もまたキリスト教を捧持した。
しかし、ボヘミアでは伝統宗教がなお勢力を持ち、貴族たちはキリスト教の到来によって自分たちの権威の失墜と支配権の喪失を恐れていた。ヴァーツラフ1世は父の教えに、続いて敬虔なキリスト教徒の祖母リュドミラ(聖ルドミラ)の薫陶を受け、キリスト教徒の公として、18歳の時にボヘミア公に就く。彼はキリスト教を広くボヘミアに広め、後に聖ヴィート大聖堂へと発展する教会を始め、多数の教会を建立する。また神聖ローマ帝国に臣従してその力を借りて布教を行った。
ヴァーツラフ1世の転向は、ボヘミアの貴族たちに深刻な危機意識を齎し、神聖ローマ帝国に屈した裏切り者で異端者のヴァーツラフ1世を排除するため、貴族たちは連合し、公の弟ボレスラフもこれに加わった。