「フォン・ブラウン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「フォン・ブラウン (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ヴェルナー・フォン・ブラウン
Wernher von Braun
1964年5月
生誕 (1912-03-23) 1912年3月23日
ドイツ帝国
プロイセン王国 ポーゼン州
ヴェルナー(ヴェルンヘル)[1]・マグヌス・マクシミリアン・フライヘル(男爵)・フォン・ブラウン(Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun, 1912年3月23日 - 1977年6月16日)は、工学者であり、ロケット技術開発の最初期における最重要指導者のひとりである。第二次世界大戦後にドイツからアメリカ合衆国に移住し、研究活動を行った。ソ連のセルゲイ・コロリョフと共に米ソの宇宙開発競争の代名詞的な人物である。
出生・少年期(英語版)で貴族(ユンカー)の家に生まれた。父親はマグヌス・フォン・ブラウン(ドイツ語版)男爵。後のヴァイマル共和政末期にフランツ・フォン・パーペン内閣で食糧農業大臣となった人物である。母親は彼がルター派の堅信礼を行った時に望遠鏡を与えた。天文学と宇宙分野への関心が、彼を生涯にわたって動機付けた。
1920年、ヴィルジッツがヴェルサイユ条約に基づいてポーランド領になると、彼の一家は他の大勢と同様にドイツ領へ移住し、シュレージエン地方で新生活を始めた。ここで、彼は音楽家パウル・ヒンデミットにピアノを教わっている。
彼はロケットの先駆者ヘルマン・オーベルトの著した論文『惑星間宇宙へのロケット(ドイツ語版)(1923年)』を手に入れるまでは、物理学と数学が不得意であった。しかしその論文を手に入れてからの彼は数学に打ち込み、得意科目にするまで努力した。 1930年にベルリン工科大学に入学した。ドイツ宇宙旅行協会にも入会し、ヘルマン・オーベルトの液体燃料ロケットエンジンの試験を手伝った。 その後、工学士の学位を得てベルリン大学へ進み[2]、陸軍兵器局のヴァルター・ドルンベルガー陸軍大尉のもとで研究するよう取り計らった。フォン・ブラウンはドルンベルガーがすでに持っていたクマースドルフ
ドイツ時代
学生時代