ウェルズ・ファーゴ
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ウェルズ・ファーゴ
Wells Fargo & Company

サンフランシスコの本社
種類株式会社
市場情報NYSE: WFC
本社所在地 アメリカ合衆国
カリフォルニア州サンフランシスコモントゴメリー通り420
設立1852年3月18日 (172年前) (1852-03-18)
業種金融
法人番号1700150000166
金融機関コード0608
SWIFTコードWFBIUS6SXXX
事業内容銀行
金融サービス
代表者エリザベス・デューク(会長
ティモシー・J・スローン(CEO
売上高 883億8900万ドル(2017年)
営業利益 273億7700万ドル(2017年)
純利益 221億8300万ドル(2017年)
純資産 19億5200万ドル(2017年)
総資産 2069億3600万ドル(2017年)
従業員数262,700人(2017年)
主要株主Berkshire Hathaway(8.95%)、Vanguard Group(7.60%)[1]
外部リンク公式ウェブサイト
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ウェルズ・ファーゴ(: Wells Fargo & Company)は、カリフォルニア州サンフランシスコに本社を置き、西部を地盤とする、2017年7月現在アメリカ合衆国で最も支店数が多い金融機関である[注釈 1]。2018年現在、資産価値では全米第三位の銀行である[2]カナダ北マリアナ諸島西インド諸島においても現地法人を持ち、個人向けの業務を営む。同行だけを展示した歴史博物館がある。

欧米の大手金融機関が投資銀行部門を収益の柱とし、巨額のデリバティブ残高を保有しているのに対し、ウェルズ・ファーゴはこれらの比率が他社に比べ低く、伝統的な商業銀行ビジネスを柱とする保守的な経営方針で知られた。投資会社バークシャー・ハサウェイはかつてポートフォリオの主力にウェルズ・ファーゴを据えていたが、後述の口座不正開設問題などを経て2021年現在は保有株をほとんど売却した[3]
マーチャントバンカー時代

1850年、カリフォルニア・ゴールドラッシュをビジネスチャンスと見たヘンリー・ウェルズ(Henry Wells)とウィリアム・ファーゴ(William Fargo)が、アメリカン・エキスプレスを創設してアメリカ金融網の大陸横断に一役を演じた。1852年3月18日、二人はカリフォルニアで資本金30万ドルの合資会社としてウェルズ・ファーゴを創設したが、初代社長はエドウィン・モルガン(Edwin B. Morgan)だった。7月、サンフランシスコに最初の事務所を構えた。翌年に社長がダンフォード・バーニー(Danford(Danforth) N. Barney)へ変わった。カリフォルニアは当時、銀行業と宅配便がどちらもろくに規制されていなかった。ウェルズ・ファーゴはモルガンとバーニーの指揮で両分野の事務所をカリフォルニア中の要所につくりまくった。1855年の信用収縮を生き残り(1857年恐慌に発展)、カリフォルニアは文字通り無敵となった。南北戦争の間に輸送業者ベン・ホラデー(Ben Holladay)が台頭、1866年にウェルズ・ファーゴがベンの運送ルートを買収した。このとき商号にホラデーの名前が混ざり、バーニーが社長をやめてルイス・マクレーン(Louis McLane, 1819-1905)に代わった。大陸横断鉄道の活躍により、会社の業容は小さくなっていった。1869年にはセントラル・パシフィック鉄道から運送子会社を高い値段で売りつけられた。1870年にウィリアム(William Fargo)が社長となった。[4]
オフショア市場を求めて

1904年、ウェルズ・ファーゴの宅配業はニューヨークへ本部を移した。連邦レベルで証券業界に対する調査と規制が進んだ。1905年、ウェルズ・ファーゴは銀行業と宅配業を分離した。このときエドワード・ヘンリー・ハリマンがウェルズ・ファーゴをネバダ・ナショナル・バンクと合併させて支配権を握った。1906年サンフランシスコ地震がおこり、ウェルズ・ファーゴ・ネバダ・ナショナル・バンクも被害を受けが、復興のため預金は焼け太った。1907年恐慌のとき他行のように取り付けに遭い、やがて連邦準備制度ができた。1918年、第一次世界大戦に臨む連邦政府の命令で、国内の宅配業が他社の事業と一緒に国有化された(Railway Express Agency)。海外の宅配業は1960年代まで続いた。[4]

1924年、ウェルズ・ファーゴ・ネバダ・ナショナル・バンクは、ヘルマン(Isaias W. Hellman)が1893年に設立したユニオン・トラストと合併した。イサイアスは1905年の合併を目的にエドワード・ヘンリー・ハリマンと組んだ人物であった。新銀行は世界恐慌を生き残り繁栄した。国営事業と関係したウェルズ・ファーゴは、証券業についてゴールドマン・サックスのような追及は受けなかった。1943年にヘルマン3世が社長となった。1954年、新銀行がウェルズ・ファーゴ・バンクと名前を短くした。

1960年、アメリカン・トラスト・カンパニーとの合併を社長が計画し、2年後に実現した。そしてスケールメリットをいかすためにオフショア市場を開拓しだした。東京シンガポールブエノスアイレスなどへ代理店を開設し、またソウル香港ナッソーへ支店を設けた。1967年、バンカメと競争するためにチャージカード(現マスターカード)のサービスをスタートした。1968年、業容拡大のため連邦からチャーターをもらい、カリフォルニア地域の4行を買収した。1969年に持株会社をつくり、アメリカン・エキスプレスの名前を銀行業に使う権利を買った。[4]
バークレイズ支店買収まで

管理通貨制度へ世界が落ち着きだした1973年、ウェルズ・ファーゴは多くの点で政策を転換した。5年後CEOとなるカール(Carl E. Reichardt)が不動産リース業の現場をてこ入れした。海外事業としては西ドイツの有名な銀行(Allgemeine Deutsche Credit-Anstalt, 現ラボバンク)の株式を25%も保有していたが、しかしこの銀行は不動産を担保とする不良債権を抱えたので、この処理にあたりウェルズ・ファーゴに損害が出た。国内銀行と合弁でロンドンに出した西部銀行も、オイルショックに耐えられずだめになった。ウェルズ・ファーゴは外為取引でも失敗した。[4]

1984年にポール・ヘイズン(Paul Hazen)が社長となった。2年経ってカールはフォードモーターの重役となった。この1986年にウェルズ・ファーゴはミッドランド銀行(Midland Bank, 現HSBC)からクロッカー(Crocker National Bank)を11億ドルで買収した。これでウェルズ・ファーゴの不動産事業は水を得た魚となったが、一方でブラジルメキシコの債権が焦げつき、1989年半ばまで不良債権処理に追われた。[4]

1988年5月、バークレイズのカリフォルニア支店を買収した。ウェルズ・ファーゴは証券化を推進した。
揺れる保守本流

1995年にアメリカン・エキスプレスとの合併協議をはじめ、決済事業に力を入れだした。同年にウェルズ・ファーゴ・日興・インベストメント・アドバイザーズをバークレイズへ4.4億ドルで売却し、アメデオ(Amadeo Giannini)のFIB(First Interstate Bancorp)を買収した。1998年ミネアポリス地盤のノーウェスト(Norwest Corporation)が旧ウェルズ・ファーゴ(Wells, Fargo & Co.)を買収して発足した。そしてノーウェストのリチャード(Richard Kovacevich)が社長となった。企業の合併買収としては珍しく、商号も本部機能も被買収企業のものが引き継がれている。これは、設立以来の150年近い歴史で培われた旧ウェルズ・ファーゴのブランドを活かすためのものである。2000年、ウェルズ・ファーゴがナショナル・バンク・オブ・アラスカ(National Bank of Alaska)を買収した。2003年、経営危機にあったストロング・フィナンシャル・コーポレーションが運用していた290億ドルの受託資産を買い叩き、ウェルズ・ファーゴのミューチュアル・ファンドは受託資産額が1千億を超えた[4]


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