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プーブリウス・ウェルギリウス・マロー
歴史と悲劇の二人の詩神とウェルギリウス(3世紀のモザイク)
誕生Publius Vergilius Maro
紀元前70年10月15日
マントゥア近郊
死没紀元前19年9月21日
ブルンディシウム
墓地ネアポリス近郊
職業詩人
言語ラテン語
市民権共和政ローマ
活動期間紀元前39年-前19年
ジャンル叙事詩
代表作アエネーイス
デビュー作牧歌
配偶者なし
所属マエケナス・サークル
影響を受けたもの
ホメーロス
影響を与えたもの
ダンテ
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プーブリウス・ウェルギリウス・マロー(ラテン語: Publius Vergilius Maro、紀元前70年10月15日[1] - 紀元前19年9月21日[2][3])は、ラテン文学の黄金期を現出させたラテン語詩人の一人である。共和政ローマ末の内乱の時代からオクタウィアヌス(アウグストゥス)の台頭に伴う帝政の確立期にその生涯を過ごした(#生涯)。『牧歌』、『農耕詩』、『アエネーイス』の三作品によって知られる(#作品)。ヨーロッパ文学史上、ラテン文学において最も重視される人物である(#受容)。ヴェルギリウスと表記されることもある。
生涯
出自マントヴァに立てられたウェルギリウス像
彼の前のウェルギリウス氏族では、紀元前87年にルキウス・コルネリウス・スッラを訴追した護民官マルクス・ウェルギリウスや[4]、クィントゥス・トゥッリウス・キケロと共にアエディリス・プレビス(平民按察官)[5]、プラエトル(法務官)を務めるなどした、ガイウス・ウェルギリウス・バルブスの名が知られている[6]。
言語学者の泉井久之助は、Vergiliusという名について、「一見ラテン語の形であるとはいえ、語の本体は…いわゆる大陸ケルトの合成名詞であった」とし、「verg-」は「効果的に作業する」、「-liu-」は 「滑らかで光沢がある」が原義であり、併せてVergiliusの名の原義は「能力によって光輝あるもの」のことであると述べている[7]。
紀元前70年10月15日、マントゥア近郊のアンデスという村で生まれる[1]。紀元前70年は、グナエウス・ポンペイウスとマルクス・リキニウス・クラッススが一触即発の状態から、スッラとガイウス・マリウスの争乱を思い出した民衆の嘆願で和解し[8]、二人とも初めてのコンスル(執政官)を勝ち取った年で[9]、紀元前86年に行われた同盟市戦争後初のケンスス(国勢調査)では約46万だった登録市民数が、この年のケンススでは91万にまで増えている[10]。父は陶工とも、役人に雇われていたとも言われ、主人のマギウスに見込まれて娘マギアを娶り、養蜂で資産を貯めて3人の子に恵まれたが、生き残ったのは末っ子のプブリウスだけだった[1]。
アンデス村のあった場所は、現代イタリアのロンバルディア州マントヴァ近くにあるコムーネ、ヴィルジーリオの中心部から少し離れたところに比定されている。なお、このコムーネの名称「ヴィルジーリオ」はウェルギリウスを生誕地という誉れを示すものである。
青年期『ルビコンを渡るカエサル』アドルフ・イヴォン画、アラス美術館蔵(1875年)
ウェルギリウスはクレモナで教育を受けた後、15才でメディオラーヌムに出て、更にローマ市で修辞学・弁論術・医学・天文学などを修めたが、健康状態が悪く、頭痛と胃痛に悩まされ、ときには吐血することもあったという[1]。話し方が遅かったためか、一度裁判弁論を行ったものの失敗し、内向的な彼はその後哲学を学んだ[11]。恐らく彼の真作と思われる、『カタレプトン』での告白によれば、当時ルクレティウスの影響でローマに広がり始めていた、心の平安を目指すエピクロス派に惹かれていたとことが覗えるが、20代後半までの足跡ははっきりとは分からない[12]。
この間、紀元前63年にはガイウス・ユリウス・カエサルの最高神祇官就任や[13]、執政官キケロによるカティリーナの陰謀の防止[14]、そしてオクタウィアヌスが誕生している[15]。紀元前58年にはカエサルとポンペイウスを後ろ盾とする護民官プブリウス・クロディウス・プルケルによるキケロ追放[16]、紀元前55年にはポンペイウス、クラッススが2度目の執政官を務め、それぞれヒスパニア、シリアでのインペリウム(命令権)を得るのと同時に、カエサルにガリアでのインペリウムを延長する法案を通した[17]。