ウェストミンスター宮殿、ならびに聖マーガレット教会を含むウェストミンスター寺院
(イギリス)
ウェストミンスター宮殿
英名Palace of Westminster and Westminster Abbey including Saint Margaret’s Church
仏名Palais de Westminster et l'abbaye de Westminster incluant l'eglise Sainte-Marguerite
面積10.26 ha
登録区分文化遺産
登録基準(1), (2), (4)
登録年1987年
備考2008年に軽微な変更
公式サイト世界遺産センター
ウェストミンスター宮殿(ウェストミンスターきゅうでん、英語:Palace of Westminster)は、イギリスのロンドン中心部、テムズ川河畔のウェストミンスターに存在する宮殿。現在は英国議会が議事堂として使用している。併設されている時計塔(ビッグ・ベン)とともにロンドンを代表する景色として挙げられる。所在地はロンドンのミルバンク。道路を挟んで西側にはウェストミンスター寺院が建つ。時計塔の鐘の音はウェストミンスターの鐘として知られている。
歴史ジョン・ロックが1746年に製作したウェストミンスター周辺の地図J・M・W・ターナーは1834年の大火を観察している[1]。
The Burning of the Houses of Lords and Commons (1835年)ビッグ・ベン(右)
ヴィクトリア・タワー(左)
ウェストミンスター宮殿のおかれているテムズ川河畔は中世を通して戦略上の要衝であった。すくなくともアングロ・サクソンの時代には既にこの地に何らかの建物が建設されていた。ソーニー・アイランド(英語版)として知られるイングランド中世にはカヌート王によって初めて宮殿として用いられるようになり、サクソン王朝の最後から2代前の王エドワード懺悔王はシティ・オブ・ロンドンの西、ソーニー・アイランドに宮殿とウェストミンスター寺院を建設した。時代が下るとこの周辺の地区はウェストミンスター(Westminster)と呼称されるようになった。これは西方の修道院(West Monastery)の省略形であると考えられている。1066年のノルマン・コンクエスト時にはウィリアム1世は一時ロンドン塔を自身の住居として定めたが、後にウェストミンスターへと移っている。これらサクソンやウィリアム1世により使用された建築物は現在残っていない。宮殿における最古の部分は次代のウィリアム2世により建造されたものである。
中世後期をとおしてウェストミンスター宮殿は王の住居であり続けた。イングランド政府が成立すると、公共施設の多くはウェストミンスター周辺に建設されている。議会の前身であるキュリア・レジス(Curia Regis, 枢密院)はウェストミンスター・ホールに設けられた。1295年に設立された初めてのイングランド議会である模範議会も宮殿内で開催されている。このようにほぼ全ての議会は王の居住する宮殿内で開催されたが、何らかの理由により他の場所に設けられたことが数例ある。
1529年の大火が発生するまでウェストミンスターは王の宮殿として機能していた。1530年にヘンリー8世はヨーク宮殿をトマス・ウルジー枢機卿から手に入れ、ホワイトホール宮殿と改名して自身の宮殿として使用した。公にはウェストミンスター宮殿が住居であったが、実際には議会両院および裁判所として利用されていた。本来宮殿であったウェストミンスター宮殿には議会としての利用に適した部屋が存在しなかった。議会の開会式など重要な国事行事はペインテッド・チェンバー(英語版)で執り行われた。貴族院は、1259年からウェストミンスター宮殿のクイーンズ・チェンバーを使用したが、1801年にホワイト・チェンバー(英語版)(別称レッサー・ホール)へ移った[2]。庶民院については16世紀半ばまで固定した開催場所が存在せず、時にはウェストミンスター寺院のチャプター・ハウスで開催されている。1548年から1834年まで、宮殿内の聖スティーヴン礼拝堂(英語版)が議場とされた[3]。
1834年10月16日に発生した宮殿の火災(英語版)によって宮殿の大半は焼失した[1]。ウェストミンスター・ホールおよびジュエル・タワー、聖スティーヴン礼拝堂の地下室、回廊のみが焼失を免れた。宮殿の再建を協議する王立の委員会が設けられ、ゴシックまたは新古典主義のいずれかのデザインで建設することを決定した。古典様式を好む人々はゴシックの粗野さは議事堂に似合わないと主張したが、キリスト教に基づいており好ましいとするオーガスタス・ピュージンを含む一派の計画が採用された。
1836年に委員会は97の計画案の中からチャールズ・バリー(英語版)の設計したゴシック・リヴァイヴァル様式のデザインを採用した[4]。1840年に礎石が据えられ、貴族院議事堂は1847年に、庶民院議事堂は1852年に完成した。その後建物の主要部分は1860年に完成した。この年にバリーが亡くなった。さらに工事は1867年まで続けられた。
第二次世界大戦中の、1941年にドイツ軍の爆撃によって庶民院が損傷を受け使用不能となったため、貴族院に移転し、貴族院は王室用の部屋を使用した。戦後、ジャイルズ・ギルバート・スコットの設計によって修復が行われ、元のチャールズ・バリーの設計を可能な限り残して1950年に完成した。
2017年7月、日本工営は現地グループ会社であるBDP社(本社マンチェスター市)が、宮殿の大改修事業の建築設計業務をイギリス議会から受託したと発表した[5]。
2018年2月2日、老朽化し雨漏りや絡み合った配線や蒸気管による火災の危険、さらにアスベスト問題などの観点から両院ともタイミングを見計らって引き払い、下院はホワイトホールのリッチモンド・ハウス(英語版)、上院はパーラメント・スクエアに面したエリザベス2世センター(英語版)に移転することで合意した。移転は早くても2025年になる[6]。
構造宮殿平面図(右側が北)
北端:時計塔、南西端:ヴィクトリア・タワー、西北部:ウェストミンスターホール
石と鋳鉄
敷地:30,000m2
幅:280m
高さ(時計塔):96m
設計者