ウェストバージニア州の歴史
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アレゲニー圏、ニューリバー渓谷のホークスネスト

ウエストバージニア州の歴史(英:History of West Virginia)では、アメリカ合衆国ウエストバージニア州となった地域の先史時代から20世紀初めにかけての歴史を概説する。ウエストバージニア州は、ネバダ州とともに南北戦争(1861年-1865年)の間に作られた2つの州の一つであり、アメリカ連合国の州から分離独立したことでは唯一の州である。元々はイギリス領バージニア植民地(1607年-1776年)の一部であり、バージニア州の西方の一部(1776年-1863年)だった。南北戦争時、バージニア州の合衆国からの脱退問題と、バージニア州からの分離独立で住民が2つに割れ、1863年に新しい州として合衆国に加盟を認められることで形成された。ウエストバージニア州は南北戦争時の境界州の1つだった。

ウエストバージニア州の歴史はその山岳地形、景観の良い川の渓谷および豊富な自然資源によって大きく影響された。これらは全てその経済と住民の生活様式を推進し、21世紀初期に「山の州」として観光客を引き付ける要素となった。
目次

1 前史

2 ヨーロッパ人の探検と開拓

3 初期の河川交通

4 アレゲーニー圏、1776年-1861年

5 南北戦争と分裂

5.1 分離

5.2 合法性

5.3 南北戦争

5.4 議論の継続


6 隠れた資源

6.1 塩、石炭:燃える岩

6.2 東海岸や五大湖に向けた初期の鉄道と舟運

6.3 新しい競争者が「10億ドルの炭田」を開く

6.4 労働者、経済問題


7 脚注

8 関連項目

9 参考文献

9.1 一次史料


前史

現在のウエストバージニア州となった所は、ヨーロッパ人開拓者が到着する前に多くのアメリカ州の先住民族が好みの狩猟場としていた。様々なマウンドビルダー文化から多くの古代の人工土盛り塚(マウンド)が、州内では特にマウンドビル、サウスチャールストンおよびロムニーの地域に残されている。これらの文明について多くのことは知られていないが、この地域で発見された人工物は、金属を扱った複雑で階層化された文化の証拠を提供している。

ウエストバージニア黄金古代期近隣の古期文化


パレオ・インディアン (紀元前11000年以前)

古期(紀元前7000年 - 1000年)

アデナ文化(紀元前1000年 - 西暦500年)

東部ウッドランド期(紀元前1000年 - 西暦1650年)

ホープウェル文化(紀元前500年 - 西暦1000年)

フォート・エンシェント文化 ( - 西暦850-1666年)

モノンガヘラ族 ( - 900年 - 1630年)

前史後期(1000年 - 1650年)

※これらの年代は地域によって異なる。

レッド・オーカー(イリノイ州上流とインディアナ州

オールド・カッパー(ウィスコンシン州ミシガン州

グレイシャル・ケイム(ミシガン湖エリー湖の間の地域)

ポイント・ペニンシュラ(エリー湖とオンタリオ湖の周り)

バウマー(低地イリノイ州)

コペナ(ケンタッキー州テネシー州アラバマ州アーカンソー州ミシシッピ川下流側

ローレンシアン古期後期(オハイオ州シンシナティ地区、メイプル・クリーク相)


ヨーロッパ人の探検と開拓 トマス・リー、バージニアのオハイオ会社初代支配人

1671年、アブラム・ウッド将軍が、バージニア植民地のウィリアム・バークリー総督の指示で、トマス・バッツとロバート・フェイラムの一隊をウエストバージニア地区に送り込んだ。この遠征の間に、2人はニューリバーに沿って進み、カノーハ滝を発見した。1716年、アレクサンダー・スポッツウッド知事は約30人の騎手と、現在のペンドルトン郡となる地域に遠征した。インディアンとの交易者だったジョン・ヴァン・ミーターが1725年に北部地域に分け入った。1725年にはまた、ポトマック川の南支流渓谷にある「ピアソール平原」、現在ではロムニーに開拓者が入り、後のフレンチ・インディアン戦争ではピアソール砦として防御陣地となった。1727年ウェールズ人のモーガン・アップ・モーガンが現在ではバークリー郡バンカーヒルの近くに小屋を建てた。同じ年に、ペンシルベニアからのドイツ人開拓者がポトマック川沿いに「ニューメックレンバーグ」、今日のシェファーズタウンを設立し、間もなく他の者も続いた。

1661年イングランドチャールズ2世はポトマック川とラッパハノック川に挟まれるノーザンネックと呼ばれる地域の土地を一群の紳士に特許した。この特許は結局、第6代キャメロンのフェアファックス卿の所有するところとなり、1746年にポトマック川北支流の源流に石柱が建てられ、特許の西の境を明示した。この土地のかなりの部分はジョージ・ワシントンによって測量され、特にポトマック川の南支流渓谷は1748年から1751年の間に行われた。その時にワシントンが付けていた日記では、既に多くの無断居住者が多くはドイツ出身者だったが、南支流に沿って入っていたことを示している。主にバージニア人によって構成された最初のオハイオ会社の測量士、クリストファー・ギストが、1751年1752年にカノーハ川河口の北にあるオハイオ川流域の地域を探検した。この会社はバンダリアという名前で14番目の植民地を造ろうとしていた。多くの開拓者が1750年以降に山を越えたが、先住民族の抵抗に遭った。フレンチ・インディアン戦争(1754年-1763年)のとき、散開した入植地はほとんど破壊された。1774年、バージニア総督ダンモア卿が軍隊を率いて山を越え、アンドリュー・ルイス大佐の率いる民兵隊がコーンズトークの率いるショーニー族と衝突し、オハイオ川とカノーハ川の合流点におけるポイント・プレザントの戦いで痛撃を食わせたが、インディアンの攻撃はアメリカ独立戦争の後まで続いた。独立戦争中、ウエストバージニアの開拓者は一般に活動的なホィッグであり、多くの者が大陸軍に従軍した。
初期の河川交通詳細は「ウエストバージニアの水運」を参照

東部の皮革産業からくるビーバーの需要増を満足させるために、カノーハ地域の支流を通りカヌーや筏を使って交易拠点に来る者が増えた。アイザック・バンビバーやダニエル・ブーンの交易所がポイント・プレザントのクルックト・クリーク河口に1790年頃に造られた。1790年代の「オールド・ウォー」(北西インディアン戦争)以後、カノーハ港は多くの船便や移動者の乗り継ぎに利用された。カノーハでを産出し、続いて石炭木材がウエストバージニアの支流から他の人口の多い地域に船で運ばれた。カノーハ地域の川岸にある多くの場所で、初期産業革命に資する竜骨船の建造が行われた。その場所の中でも、レオン、レーベンズウッド・マレーズビルおよびリトル・カノーハリバーがある。1800年代初期には、蒸気船の建造と機械修繕工場がホィーリングパーカースバーグに、続いてポイント・プレザントやメイソンに現れた。


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