ルイジアナ州ウェストバトンルージュ郡
郡のルイジアナ州内の位置
州のアメリカ合衆国内の位置
設立1807年
郡名の由来フランス語の baton rouge であり、「赤い棒」を意味している
郡庁所在地ポートアレン
ウェストバトンルージュ郡(ウェストバトンルージュぐん、英: West Baton Rouge Parish)は、アメリカ合衆国ルイジアナ州の中央部に位置する郡であり、面積では州内最小である。2010年国勢調査での人口は23,788人であり、2000年の21,601人から10.1%増加した[1]。郡庁所在地はポートアレン(人口5,180人[2])であり[3]、同郡で人口最大の町でもある。ウェストバトンルージュ郡はその教育制度に対する評価が高い。
ウェストバトンルージュ郡はバトンルージュ大都市圏に属している。 プラークミン文化のマウンドがあるメドラ遺跡が、郡内南東部隅、ミシシッピ川がヘアピンのように屈折した場所にあるマンチャックポイントの氾濫原、バイユー・ボルボーに隣接してある。この遺跡がプラークミン文化とその時代を定義させることになった[4]。1939年から1940年の冬に、ルイジアナ州立大学と公共事業促進局の合同プロジェクトとして、ルイジアナ州考古学調査所のためにジェイムズ・A・フォードとジョージ・I・クィンビーによって発掘された[5]。 ウェストバトンルージュ郡は1807年に設立され、1812年まではバトンルージュ郡と呼ばれていた。 1853年、バトンルージュ・グロステト・アンド・オペルーサス鉄道が認可された[6]。この会社線はバトンルージュ市からミシシッピ川を挟んで西岸、現在のポートアレン市が東側終着点だった。蒸気渡し船サニーサウス号が1日3回川を渡し、バトンルージュ市までの鉄道に繋いだ。この鉄道は西に隣接するアイバービル郡のローズデールの村を通っていた。グロステトの村近くでバイユー・グロステトに達すると、北西に転じてポイントクーピー郡のリボニアに通っており、総延長は26マイル (42 km) あった。リボニアから西、アチャファライア川までの路床は1861年までに準備されていた。 南北戦争の勃発によって路床に線路を敷く工事が妨げられた。オペルーサス市までの路線が建設されることは無かった。 ルイジアナ州が合衆国から脱退した後、ウェストバトンルージュ郡で2つの民兵隊が立ち上げられた。1つはH・M・ファブロー大尉が指揮するデルタ・ライフル隊、もう1つはブラスリー・ランディングの狙撃兵隊であり、クレオール人のフランス語話者の中隊をウィリアムズ大尉が指揮した。この2個中隊はルイジアナ第4連隊に加えられ、ロバート・J・バーロウ大佐が指揮し、ヘンリー・ワトキンス・アレン中佐が副官になった。この連隊は、シャイローの戦い、バトンルージュの戦いなどに参戦した[7]。 鉄道は1862年5月まで運行され、サトウキビ、綿花を運び、またデルタ・ライフル隊を含み南軍も運んだ[8]。1862年5月に北軍がバトンルージュを占領すると、鉄道の全車両は捕獲を逃れて鉄道線の西端まで送られ、戦争が続く間はそこに保管された[9]。戦中、鉄道会社の社長はJ・V・デュラルドだった 北軍がバトンルージュを占領する間、市民の多くがウェストバトンルージュ郡に避難した[10]。バトンルージュの戦い前にウェストバトンルージュ郡の堤防下に南軍の装甲砲艦 CSSアーカンソーが繋がれているのをサラ・モーガンが目撃した。モーガンは郡内でバトンルージュの戦いを観察した[10]。 CSSアーカンソーは戦いの間に、北軍の装甲艦USSエセックスを攻撃できる位置に着こうとして上流に進んでいるときに推進機関が故障した。このことでウェストバトンルージュ郡側の岸に逸れ、座礁した。CSSアーカンソーの乗組員は敵の手に落ちることを避けるために、艦に火を付け、沈船させた[11]。
歴史
前史時代
郡の成立
南北戦争
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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