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ウェスタンエレクトリック(英: Western Electric)は、かつて存在したアメリカ合衆国の電機機器開発・製造企業。1881年から1995年まで、AT&Tの製造部門として存在した。数々の技術的発明や、産業の管理手法の開発で知られる。AT&Tのグループ企業の調達エージェントとしても機能していた。現在はノキアが事業を後継している。
歴史ウェスタン・エレクトリック会社ニューヨーク工場 1889年
1856年、ジョージ・ショーク (George Shawk) はクリーブランドの電気機器製造企業を買収した。1869年、彼は エノス・M・バートン (Enos M. Barton) を共同経営者に迎えたが、同年、ショークは株を発明家イライシャ・グレイに売却した。1872、バートンとグレイは本社をシカゴに移し、ウェスタン・エレクトリック・マニュファクチャリング・カンパニー (Western Electric Manufacturing Company) と社名を変更。同社は、タイプライター、警報器、照明といった電気機器を製造し、電信事業会社ウエスタンユニオンとは密接な関係を持ち、継電器などの機器を供給していた。
1875年、グレイは持ち株をウエスタンユニオンに売却し、同時にグレアム・ベルの電話に関する特許に対する差し止め請求権も売却した。ウエスタンユニオンとベル電話会社の特許紛争が1879年に決着すると、ウエスタンユニオンは電話市場から撤退し、ベルは1881年にウェスタン・エレクトリックを買収した。
ウェスタン・エレクトリックは、海外資本として日本で初の合弁事業を立ち上げた会社であった。1899年、日本電気(NEC)の設立当時、ウェスタン・エレクトリックは株式の54%を保有していた。日本でのウェスタン・エレクトリックの代表としてウォルター・T・カールトンが日本電気社内に席を構えた。
1992年まで使用されていたNECの旧ロゴのデザインは、ウェスタン・エレクトリックのロゴが由来となっている。
数年後、ウェスタンエレクトリックは極秘裏に競合企業であるケロッグ・スイッチボード・アンド・サプライ (Kellogg Switchboard & Supply company) の株式を取得して経営権を握った。しかし、独占禁止法違反を指摘され、株式の売却を余儀なくされた。
独立系電話会社は1,300ほど存在したが、AT&Tは1881年から1984年のグループ分割まで米国における長距離電話サービスをほぼ独占していたし、アメリカにおける多くの地域でも地域電話会社によって市場を独占していた[要出典]。AT&Tは、20世紀初めには米国のほとんどの都市部を抑えていた[要出典]。独立系電話会社はあまり利益の望めない地域や田舎で生き残った。
AT&Tの収入の大部分は地域ベル電話会社 (RBOC) によるものであった。AT&Tの他の部門としては、ベル研究所、長距離電話部門、製造部門としてのウェスタン・エレクトリックなどがあった。 AT&Tが地域電話会社でカバーしている地域の全ての電話機、公衆交換電話網 (PSTN) の全部品、その網に接続されたあらゆる機器はウェスタン・エレクトリックが製造したもので、それ以外はAT&Tのネットワークに接続することは許されなかった。この独占状態を保つため、AT&Tグループは、顧客が他社製品を接続していないかを調査する小規模の部隊を編成していた。[要出典] ウェスタン・エレクトリック製電話機は顧客が購入するものではなく、地域ベル電話会社のものであり、AT&Tのものであり、同時にウェスタン・エレクトリック自身のものである。すなわち、電話機はAT&Tから顧客にリースされ、電話料金にリース料が加算された料金を請求される。リース料は累積すると販売価格よりも高額になるので、これによってAT&Tとウェスタン・エレクトリックは多額の資金が流れ込み、それを電話サービスそのものにつぎ込んで、市内通話料金を非常に低額(電話機リース料を含めて月額10ドル以下)にすることができた。分割後は、基本料金がうなぎ上りに上がり、屋内配線と電話機は顧客の所有物となった。ウェスタン・エレクトリック製の電話機には「ベルシステム資産-非売品」[1]という刻印があった。電話機には現地の地域ベル電話会社のステッカーも貼付してあった。さらに収入を増やす手法として、回収した旧モデルの電話機の中身を新型の電話機の中身として再利用していた。寡占市場であったため、AT&Tは電話機の出荷台数を自由に制御でき、結果としてウェスタン・エレクトリックの電話機の新機種投入頻度は少なく押さえられた。 AT&Tは他社製電話機の使用を禁止するというポリシーを厳密に適用した。どうしてもベルシステム以外の電話機を使いたい顧客は、その購入した電話機をいったん当地のベル・モノポリー (英: Bell Monopoly) に送り、その会社が顧客にその電話を送り返してリースするという形態をとる[要出典]。このため余分な費用がかかる。1970年代になると、他社製電話機を使う顧客が増えてきたため、AT&Tは一部方針変更し、Design Line シリーズ電話機の外装を顧客が購入し、中身の機械部分はAT&Tがリースするという形にした。 1983年まで、ウェスタン・エレクトリックの電話機(特に内部の機械)は常にリースされており、販売されなかった。つまり、故障した場合の修理はAT&T側の負担となる。そのため、ウェスタン・エレクトリックは設計において極限まで信頼性と耐久性を追求することで、修理回数を減らそうとした。特にウォルター・A・シューハートは1920年代に統計的品質管理技法を開発し、ウェスタン・エレクトリックの生産品質の向上に貢献した。
独占開発