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ローマ人によるウェスタの処女像
ウェスタの処女(ウェスタのしょじょ、ラテン語:Vestales(複数形)、Vestalis(単数形)、英語:Vestal Virgin)あるいはウェスタの乙女、ウェスタの巫女は、古代ローマで信仰された火床をつかさどる女神ウェスタに仕えた巫女たちのこと。ウェスタの聖職者団およびその安寧はローマの永続と安定の根本であるとみなされ、ウェスタは彼女たちの守る決して絶やしてはならない聖なる炎として具現化された。ウェスタの処女たちは、結婚や子育てといった一般的な社会的義務から解放されていた。それは彼女たちが国教に遵ずることを学び、また正すことに奉仕するため、純潔を誓っていたからである。それは男性の聖職者たちにはできないことだった[1]。
処女神ウェスタ詳細は「ウェスタ」を参照
ウェスタは家政をつかさどりまた結婚を庇護する女神であったが、自身は「結婚・出産」することのない「処女神」であった。神話そのものはほとんど残されておらず、偶像崇拝のなされなかった稀有な神であった。彼女は火そのものとして崇められたのだ。藤澤桂澄は、ウェスタの処女性は今日考えられているような男性が父権制のもとでつくりあげたものではなく、それ以前のはるか昔における「母権制」の産物であった可能性を指摘している。彼女によれば、ウェスタをはじめとした「処女神」は出産による「死と再生」の神話ではなく、「異界への接続」をこそつかさどる[2]。
歴史パラティーノにあるウェスタの神殿
リウィウス、プルタルコス、ゲリウスは、国家がさだめる聖職としての「ウェスタの処女」の創設をヌマ・ポンピリウス王に帰している。伝説によれば、王は紀元前750年から紀元前673年ごろまで生きたと考えられている。リウィウスによれば、ヌマはウェスタの処女という職責を導入し、国庫から給与を支払った。ウェスタの司祭はその起源をアルバ・ロンガにもつ、ともリウィウスは語っている[3]。2世紀の好古家であるゲリウスは、はじめてのウェスタの処女たちはヌマによって親元から引き離され、その手中におかれたのだと書いている。プルタルコスはヌマ王のためウェスタの神殿をたてることに貢献した。最初のウェスタの処女は、4人いるとされる。セルウィウス・トゥッリウスがそれを6名に増やした[4]。アンブロジウスが古代末期に7人目を置いたともとれる言葉を残している[5]。ヌマは最高神祇官にウェスタの処女を監督するよう命じてもいる。最初の巫女たちの名は、ウァロによれば、Gegania、Veneneia、Canuleia、Tarpeiaであった。神話では、スプーリウス・タルペイアスの娘であるタルペーイア(Tarpeia)は背信者として描かれている。
ウェスタの処女たちは、ローマで権勢をふるい、影響力をもつようになる。スッラが若きユリウス・カエサルをローマから追いやった時代には、彼女たちがカエサルのために仲裁にはいり、スッラの赦しをえたのだ[6]。アウグストゥスは彼女たちをあらゆる主要な奉納式および典礼に関わらせた。首都長官クィントゥス・アウレリウス・シュンマクス
(英語版)は、キリスト教の勃興期にローマの伝統的な信仰を守る道を探っていた人物であるが、こんなことを書いている。「我らが祖先はウェスタの処女のための法を残している。彼女たち神に仕える聖職者はまもられねばならず、また特権が与えられるとある。この恩恵は、両替商がはびこるまで侵されることがなかった。聖なる純潔をまもるためにあるものがあさましい人夫の報酬のための基金へとかえられてしまったのだ。いまや公然のものとなったこの飢饉は彼らの行いの結果である。凶作があらゆる属州の期待をくじいている…。汚聖こそが長年の不作をよびこんでいるのだ。それは全人民が信仰を拒み、堕落している限りは当然のことではないか[7]」
ウェスタの聖職者団は394年に解散され、聖なる炎がともることはなくなった。キリスト教徒であるテオドシウス1世の命であった。ゾシモス(en)の記録するところでは[8]、テオドシウス1世の姪であったセレナという貴婦人が、神殿へ足を踏み入れ、女神の彫刻から首飾りをはずし、自らの首にかけたのだという。最後のウェスタの処女であった老女が、その不信心を非難して訴えでている[9]。そのころセレナは、彼女の不意の死を予言する恐ろしい夢にうなされていた、とゾシモスはいう。セレナは409年にテオドシウス1世の子ホノリウスによって処刑された。アウグスティヌスが「神の国」を著したのは、ローマが攻め落とされて帝国が崩壊したのは、千年以上も都市をまもってきた旧神が狭量であり、それにかわってキリスト教の時代が到来したことにある、という噂に着想をえたものであり、またその返答とするためであった。「ウェスタの神殿」がポンペイで発見されたことで、ウェスタの処女たちの伝説は18世紀から19世紀にかけて広く知られるようになった。ガスパーレ・スポンティーニは1807年にウェスタの処女を題材とした歌劇「ヴェスタの巫女」(La Vestale)を作曲している。