ウェイロン・ジェニングス
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Waylon Jennings

基本情報
生誕 (1937-06-15) 1937年6月15日
出身地 アメリカ合衆国
死没 (2002-02-13) 2002年2月13日(64歳没)
ジャンルカントリー・ミュージック
職業シンガーソングライター

ウェイロン・ジェニングス(Waylon Jennings、 1937年6月15日 - 2002年2月13日)は、アメリカ合衆国歌手ソングライターである。

8歳からギターを弾き始め、14歳からラジオ局KVOWで演奏を披露するようになる。テキサス州ワイオミング州の各ラジオ局でDJとして働いたのち、1958年にバディ・ホリーに声を掛けられ、「Jole Blon」と「When Sin Stops(Love Begins)」で初レコーディングのデビューを果たす。その後、ロカビリーバンド「The Waylors」を結成したジェニングスは、独立系レーベルやA&Mレコードを経て、RCAビクターで成功する。

1970年代、ジェニングスはアウトロー・カントリー(英語版)発端の助力となった。彼がリリースしたアルバム「Lonesome, On'ry and Mean」「Honky Tonk Heroes」は絶賛され、「Dreaming My Dreams」「Are You Ready for the Country」もヒットアルバムとなる。1976年、彼がウィリー・ネルソン、トンポール・グラサー(英語版)、ジェシー・コルター(英語版)と共に出したアルバム「Wanted!The Outlaws」 は初のプラチナ認定を受けたカントリーアルバムとなった。

一方、私生活ではコカインを使用していたことから1980年代初頭までコカイン中毒に苦しみ、1984年に止めている。その後、ウィリー・ネルソン、クリス・クリストファーソンジョニー・キャッシュと一緒にカントリーのグループ「ザ・ハイウェイメン」に加入、1985年から1995年の間に3枚のアルバムをリリースした。1997年以降、彼はより多くの時間を家族と過ごすためにツアーを減らすようになり、1999年から2001年の間は、健康上の都合により彼の登場が制限された。ジェニングスは2001年にカントリーミュージックの殿堂(英語版)入りを果たしているのだが、彼はこの時も欠席している。2002年2月13日、ジェニングスは糖尿病の合併症により64歳で死去した。
生い立ち

1937年6月15日、ウェイロン・ジェニングスはリトルフィールド (テキサス州)近郊の農場で生まれた。出生証明書での彼の名前はウェイランド(Wayland)である。テキサス州プレーンビューにあるウェイランド・バプテスト大学にちなんだ命名でバプテスト教会の伝道師が母親を祝福したのだが、同大学を知らなかったロレーヌ・ジェニングスが綴りをウェイロン(Waylon)に変更してしまった。後年、ジェニングスは自伝で「私はウェイロンが好きではなかった。それはダサくて田舎者のような響きだった。でも自分には良いものとなっており、私には今やウェイロンがだいぶ馴染んでいる」と述べている[1]
音楽経歴
音楽との出会い

ジェニングスが8歳の時、母親が「Thirty Pieces of Silver」という曲でギターの弾きかたを彼に教えた。母親が中古のステラ(en)を購入するまでジェニングスは近親者のギターで練習し、後にハーモニー社のパトリシャン(en)を注文した。 初期の影響は、ボブ・ウィルズ、フロイド・ティルマン、アーネスト・タブハンク・ウィリアムズ、カール・スミス、エルビス・プレスリーだった[2][3][4][5]

家族の集会から始めたジェニングスは青少年センターで公演し、その後地元の米国青年会議所やライオンズクラブに出演した。彼は、ラボック (テキサス州)地元テレビ局のタレント・ショー[注釈 1]にて「ヘイ・ジョー」を歌って優勝した。後に彼は地元のタレント・ナイト期間中にリトルフィールドのパレス・シアターで頻繁に公演した[6]

ジェニングスは、リトルフィールドのラジオ局KVOWで行われたオーディションを12歳で受けた[7]。 主催のJ・B・マクシャンは彼のスタイルを気に入り、毎週の30分番組のために彼を雇った。この採用の後、ジェニングスは他の友人や知人を集めてザ・テキサス・ロングホーンズ(The Texas Longhorns)を結成した。カントリー&ウエスタンブルーグラスの音楽が混ざったバンドのスタイルは、良い評価をされないことも多かった[8]

16歳の時、ジェニングスは幾度かの懲戒違反を経て、高校中退が確定的となった。学校を去った彼は青果店で働き、短期仕事もしていたが、 ジェニングスは好きな活動の音楽が自分の職業になると感じていた[9]。翌年、ジェニングスとテキサス・ロングホーンズは、ラボックのKFYOラジオで「Stranger in My Home」「There'll a a New Day」のデモを録音した[8]。ジェニングスや他の地元のミュージシャンは、カントリーラジオ局KDAVで演奏することが多く、彼はその時にバディ・ホリーと出会った。この2人は地元番組で会うことが多く、ジェニングスはKDAVの『Sunday Party』でホリーの演奏に参加するようになった[10]

KVOW局での演奏放送に加えて、1956年にジェニングスはDJとして働き始め、ラボックに引っ越した[11]。彼の番組は午後4時から夕方10時まで6時間流れ、ジェニングスは2時間を昔のカントリー、2時間を最新カントリー、残る2時間は取り混ぜの録音だった[12]。その最後2時間に、ジェニングスはチャック・ベリーリトル・リチャードなどのアーティストの曲を演奏した。オーナーは彼がその演奏録音を放送するたびに彼を叱責し、彼が続けて2回リチャードのレコードを流した時、オーナーは彼を解雇した[13]自身の番組放送時のジェニングス。1958年

KVOWに在籍中、別のラジオ局KLVTで働いていたDJのスカイ・コービンがジェニングスのもとを訪れた。ハンク・スノウの「I'm Moving On」に合わせてジングルを歌うのを聞いたコービンは、彼の声に感銘を受けたのだ。ジェニングスは週50ドルの給料で生活する経済的困窮を打ち明けた。そこでコービンはジェニングスをKLVTに招き入れ、最終的にはコービンが当時降板になった場所に入った[14]。後にコービン家はラボックのFM局KLLLを買い取り、同局の方針をカントリーに変更した。ジェニングスはコービン家が運営するFM局最初のDJとして雇われた[15]。ジェニングスはコマーシャルを制作したり他のDJとジングルを作った。彼らの人気が高まってきた頃、イングランドツアーからバディホリーが戻ってきてKLLL局を訪れた[16]

ホリーは、ジェニングスを自分の最初のアーティストとした。 ホリーは彼に新しい服を着せ、一緒に彼のイメージを好印象に変えた[17]。そして彼はクローヴィス (ニューメキシコ州)にあるノーマン・ペティの録音スタジオでジェニングスのセッションを手配した。9月10日に、ジェニングスはサックス奏者のキング・カーティスそしてギター奏者のホリーおよびトミー・オールサップと共に「Jole Blon」と「When Sin Stops(Love Begins)」を録音した。 その後、ホリーは「冬のダンスパーティーツアー」でのエレキベース奏者にジェニングスを雇った[11]


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