ウェイド・ボッグス
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ウェイド・ボッグス
Wade Boggs
2013年7月27日
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ネブラスカ州オマハ
生年月日 (1958-06-15) 1958年6月15日(65歳)
身長
体重6' 2" =約188 cm
197 lb =約89.4 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション三塁手
プロ入り1976年 ドラフト7巡目
初出場1982年4月10日
最終出場1999年8月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


ボストン・レッドソックス (1982 - 1992)

ニューヨーク・ヤンキース (1993 - 1997)

タンパベイ・デビルレイズ (1998 - 1999)

コーチ歴


タンパベイ・デビルレイズ (2001)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年2005年
得票率91.9%
選出方法BBWAA[:en]選出
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ウェイド・アンソニー・ボッグス(Wade Anthony Boggs, 1958年6月15日 - )は、アメリカ合衆国ネブラスカ州オマハ出身の元プロ野球選手三塁手)。
経歴
プロ入りとレッドソックス時代

1976年ドラフト会議ボストン・レッドソックスから7巡目に指名を受け、入団。長打こそ少ないもののマイナーリーグ時代から高い打率と出塁率を記録した。

1981年にAAA級ポータケットで打率.335、出塁率.437を記録した。

1982年4月10日のボルチモア・オリオールズ戦でメジャーデビューを果たす。当初は代打での出場が多かったが、6月後半からはレギュラーに定着。規定打席には足りなかったが、打率.349を記録し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票ではカル・リプケン・ジュニアケント・ハーベックに次ぐ3位に入った。

1983年は打率.361、リプケンに次ぐリーグ2位の210安打を記録し、首位打者のタイトルを獲得。出塁率.444もリーグトップで、初のシルバースラッガー賞も受賞した。

1985年にはオールスターゲームに初出場し、以後11年連続で選出された。同年は後半戦で打率.395を記録し、シーズン通算で打率.368、共にリーグトップの240安打、出塁率.450を記録し、2年ぶりの首位打者を獲得。MVPの投票では4位に入った。

1986年は打率.357、リーグトップの105四球、出塁率.453を記録。2年連続の首位打者を獲得し、チームの11年ぶりの地区優勝に貢献。カリフォルニア・エンゼルスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.233と振るわなかったが、チームは4勝3敗でエンゼルスを下しリーグ優勝。ニューヨーク・メッツとのワールドシリーズでは3勝2敗で迎えた第6戦で3安打を放つが、ビル・バックナーの失策でサヨナラ負けを喫し、第7戦も敗れて68年ぶりのワールドチャンピオンを逃した。

1987年は打率.363、自己最高の24本塁打、89打点、OPS1.049を記録し、3年連続の首位打者。1988年には本塁打は5本に減少したが、打率.366、いずれもリーグトップの45二塁打、125四球、128得点、出塁率.476を記録し、4年連続の首位打者を獲得する。チームは2年ぶりの地区優勝を果たした。当時最強を誇ったオークランド・アスレティックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.385を記録するなど活躍したが、チームは4連敗で敗退した。1988年 レッドソックス時代

1989年は打率.330、キャリアハイの51二塁打、7年連続の200安打となる205安打を記録。しかし首位打者はカービー・パケットに譲り、5年連続のタイトルはならなかった。1990年は手首を始めとした故障に悩まされて不振に陥り、連続200安打も途切れたが、打率.302を記録する。チームは2年ぶりの地区優勝を果たし、再びアスレティックスとの顔合わせとなったリーグチャンピオンシップシリーズでは、第1戦でデーブ・スチュワートから本塁打を放つなど打率.438を記録するが、チームはまたも4連敗を喫した。

1991年は打率.332と盛り返す。

1992年はシーズンを通して調子が上がらず、キャリアワーストの打率.259に終わった。オフにフリーエージェントとなった。
ヤンキース時代

1992年12月15日にニューヨーク・ヤンキースと契約した。

1993年は打率.302を残す。

1994年232日間に及ぶ長期ストライキの影響でシーズンが打ち切られたが、打率.342、11本塁打、出塁率.433と全盛期並みの成績を残し、自身初のゴールドグラブ賞を受賞した。

1995年は打率.324、出塁率.412を記録し、チームのワイルドカード獲得に貢献。シアトル・マリナーズとのディビジョンシリーズでは第1戦で本塁打を放つが、チームは第5戦で逆転サヨナラ負けを喫し、2勝3敗で敗退した。

1996年は打率.311で4年連続の3割を記録、チームは15年ぶりのリーグ優勝を果たす。ポストシーズンでは打率.125に終わるが、チームはワールドシリーズアトランタ・ブレーブスを4勝2敗で破って18年ぶりのワールドチャンピオンに輝き、念願のチャンピオンリングを手にした。

1997年は先発から外れることが多くなり、自身は104試合の出場に留まった一方、チームはワイルドカードでポストシーズンに進出する。クリーブランド・インディアンスとのディビジョンシリーズでは打率.429を記録するが、チームは2勝3敗で敗退。オフにフリーエージェントとなった。
デビルレイズ時代

1997年12月9日に高校時代を過ごしたタンパに本拠地を置く新球団タンパベイ・デビルレイズと契約した。

1998年は40歳を迎え、打率.280を記録する。

1999年8月7日のインディアンス戦で6回に2点本塁打を放ち、通算3000本安打を達成。本塁打での達成はMLB史上初だった。しかしその後にを故障し、8月27日を最後に戦線離脱、現役引退を表明した。ボッグスのデビルレイズ在籍時の背番号「12」。
タンパベイ・デビルレイズの永久欠番に2000年指定。ボッグスのレッドソックス在籍時の背番号「26」。


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