ウィーヴァーズ
[Wikipedia|▼Menu]

ピート・シーガー
クリアウォーター・フェスティバルのシーガー(2007年)
基本情報
生誕 (1919-05-03) 1919年5月3日
出身地 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市
死没 (2014-01-27) 2014年1月27日(94歳没)
学歴ハーバード大学中退
ジャンルフォーク
職業シンガーソングライター、政治活動家
担当楽器バンジョー
ギターリコーダー
活動期間1939年 - 2014年
共同作業者ウィーバーズ、アルマナック・シンガーズ、ウディ・ガスリー、アロー・ガスリー

ピート・シーガー(英語: Pete Seeger、1919年5月3日 - 2014年1月27日)は、アメリカ合衆国フォーク歌手である。20世紀半ばのフォーク・リバイバル運動の中心人物の一人である。

第二次世界大戦前の1940年代から全国放送のラジオで活躍し、1950年代はじめにはウィーバーズの一員として一連のヒット作を出した。1960年代にはプロテストソングのパイオニアとして公の場に再登場し、国際的な軍縮、公民権運動を推進した。

ソングライターとしては「花はどこへ行った (Where Have All the Flowers Gone?)」(ジョー・ヒカーソン(英語版)との共作)、「天使のハンマー (If I Had a Hammer)」(ウィーバーズのリー・ヘイズ(英語版)との共作)、「ターン・ターン・ターン (Turn! Turn! Turn!)」などの代表作を生み出した。スピリチュアル(霊歌)「ウィ・シャル・オーバーカム (We Shall Overcome)」を1960年代の公民権運動を象徴する歌にした立役者でもある。

晩年にも環境問題について訴える活動を続けていた。
略歴
生い立ち

ピート・シーガーはニューヨーク市のミッドタウン・マンハッタンにあるフランス病院で生まれた。両親は1918年から1920年まで、ニューヨーク州パターソンで彼の祖父母と一緒に住んでいた。父、チャールズ・ルイス・シーガー・ジュニアは作曲家であり、民族音楽学の先駆者として、アメリカのフォーク音楽や非西洋圏の音楽について研究していた。母、コンスタンス・ド・クリヴァ・エドソンはクラシック音楽ヴァイオリン奏者で、教師でもあった[1]。両親はシーガーが7歳のときに離婚した。継母となったルース・クロフォード=シーガーは20世紀を代表する女性作曲家の一人である。

シーガーは、コネチカット州エイヴォンの寄宿学校「エイヴォン・オールド・ファームズ(英語版)」に学び、ルイス・オーガスト・ジョナス財団が主催する国際的な奨学金付きの夏期合宿プログラム「キャンプ・ライジング・サン(英語版)」の参加者に選ばれた。プロの音楽家であった両親は楽器の演奏を強いることはなかったが、ピート少年はウクレレに魅せられ、級友を楽しませるために演奏を披露するようになっていった。それが後の聴衆を惹き付ける術の基礎となった。

1936年に、当時の大統領、フランクリン・ルーズベルトの農場移転プログラムに携わっていた父とともに旅をした際に、ノースカロライナ州アッシュヴィルの「マウンテン・ダンスとフォークの祭り」で、ピート少年は5弦バンジョーを初めて聴き[2]、人生が大きく変わった。その後4年間、彼はこの楽器の熟達のためにほとんどの時間を費やすことになった。

シーガーはハーバード大学の教養課程にあたるハーバード・カレッジに部分的な奨学金を得て進学したが、ラディカルな政治活動とフォーク音楽にのめり込んでいったために成績が悪化し、奨学金を停止された。このため、1938年にはカレッジを中退してしまった[3]
初期の活動

シーガーはジャーナリストになることを目指しつつ、芸術の学科も受講していた。最初に公の場で行った演奏は、当時叔母が校長を務めていたダルトンスクールで、生徒にフォーク曲を歌わせる歌唱指導をすることであった。

退学後の夏に、革命後のメキシコで展開された地方教育運動の影響を受けたラディカルな旅回りの人形劇団「ザ・バガボンド・パペッティアーズ(The Vagabond Puppeteers)」の巡業に参加した後[4]ワシントンD.C.で父の友人であったアラン・ローマックスの助手として、アメリカ議会図書館の民衆(フォーク)文化アーカイブで働くことになった。シーガーの仕事は、商業的な「レイス」ミュージック、「ヒルビリー(英語版)」ミュージック(と当時呼ばれていた音楽)から、伝統的なフォーク音楽を代表するものとして最もふさわしい録音を選ぶというものだった。この事業は米州連合(米州機構の前身)の音楽部門が資金を出していたが、その部門代表は彼の父、チャールズ・シーガーが務めていた(1938年 - 1953年)[註 1]

ローマックスはシーガーのフォーク歌手としての活動を後押しし、シーガーはローマックスがニコラス・レイと毎週放送していたCBSのラジオ番組『Back Where I Come From』(1940年 - 1941年)に、ジョシュ・ホワイト(英語版)、バール・アイヴスレッドベリーウディ・ガスリーらとともにレギュラー出演するようになった。ちなみに、シーガーがガスリーと最初に会ったのは、1940年3月にウィル・ギアが主催した、移住を余儀なくされた労働者のための慈善コンサート「怒りの葡萄」においてであった。1944年、エレノア・ルーズベルト(中央)らの前で歌うピート・シーガー

『Back Where I Come From』は、人種を超えて出演者が出ていたという点で当時としてはユニークな番組であり、1941年3月に大統領夫人エレノア・ルーズベルトの主催でホワイトハウスにおいて行われた「アメリア兵士のための夕べ」で、彼らが陸軍長官財務長官海軍長官などの高官を前に演奏したことは、ニュースになった[5]。戦時中、シーガーはノーマン・コーウィン(英語版)の全国ラジオ放送でも演奏していた。
グループでの活動

シーガーは彼自身の声を「スプリット・テナー」(アルトテナーの中間)と称していた[6]。彼は非常に影響力の大きかった二つのフォーク・グループ、アルマナック・シンガーズ(英語版)とウィーバーズの創設メンバーだった。
アルマナック・シンガーズ

シーガーは1941年に、ミラード・ランペル(英語版)、アーカンソー州の歌手で活動家であったリー・ヘイズと共にアルマナック・シンガーズを結成した。アルマナックスは世相を主題とし、労働組合運動、人種や宗教の融和、その他の進歩的な主張を推し進める、いわば歌う新聞として機能するグループだった。メンバーはその時々で入れ替わり、ウディ・ガスリー、ベス・ローマックス・ハウズ(英語版)、ボールドウィン・"ブッチ"・ハウズ、シス・カニンガム(英語版)、ジョシュ・ホワイト(英語版)、サム・ゲイリー(英語版)らが参加していた。当時21歳だったシーガーは、過激なテーマを歌うアルマナック・シンガーズの一員として活動するのに際し、政府の仕事に就いていた父親に配慮して「ピート・バウアーズ」という芸名を名乗っていた。

アルマナックスは複数のレーベルで78回転のSP盤のアルバム(SP盤をまとめたもの)を録音した。『Songs for John Doe』 (Almanac Records、1941年2月下旬か3月に録音、5月発売)[註 2]、『トーキング・ユニオン(英語版)』(Keynote、1941年)、水夫が作業中に歌うはやし唄を集めた『Deep Sea Chanteys and Whaling Ballads』 (General、1941年)、開拓者の歌などを集めた『Sod Buster Ballads』 (General、1941年) 、フランクリン・ルーズベルトの戦争への取り組みを支持するアルバム『Dear Mr. President』(Keynote、1942年)などが発売された。
ウィーバーズ

1950年にアルマナックスはウィーバーズに再編された。グループ名は、労働者のストライキを描いた1892年のゲルハルト・ハウプトマンの戯曲『織工(おりこう)』(「もはや我慢ならない、どうにでもなれ!」という台詞がある)から採られた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:99 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef