ウィーン
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この項目では、オーストリアの首都について説明しています。その他の用法については「ウィーン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ウィーン
Wien

連邦州



印章

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座標:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯48度12分 東経16度22分 / 北緯48.200度 東経16.367度 / 48.200; 16.367
 オーストリア
政府
 ? 種別都市州
 ? 州首相/市長ミヒャエル・ルートヴィヒ(ドイツ語版、英語版) (SPO)
 ? 副市長.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

ビルギット・へーバイン(ドイツ語版)(緑の党

ドミニク・ネップ(ドイツ語版)(FPO

面積
 ? 陸地395.25 km2
 ? 水域19.39 km2
標高151 ? 542 m
人口(2017年)
 ? 連邦州1,867,582人
 ? 密度4,326.1人/km2
 ? 都市圏2,600,000人
等時帯UTC+1 (CET)
 ? 夏時間UTC+2 (CEST)
郵便番号

1xx0(xxに各区の番号)

1300(ウィーン国際空港

1400(国際連合ウィーン事務局[1]

ISO 3166コードAT-9
ナンバープレートW
GeoTLD.wien
ウェブサイト ⇒www.wien.gv.at

ウィーン[注釈 1](標準ドイツ語: Wien  発音〈ヴィーン〉、バイエルン・オーストリア語: Wean〈ヴェアン〉、: Vienne  発音〈ヴィエンヌ〉、: Vienna  発音〈ヴィエナ〉)は、オーストリア首都。9つの連邦州のひとつ[2]で、都市州である。漢字による当て字では維納と表記される[3]

2017年1月1日時点での人口は186万7582人。ヨーロッパ有数の世界都市である。

第一次世界大戦までは、オーストリア=ハンガリー帝国の首都として、ドイツ帝国を除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半までは神聖ローマ帝国ドイツ連邦を通じて、形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。クラシック音楽が盛んで、過去にモーツァルトベートーヴェンシューベルトなど、多くの作曲家が活躍したことから「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる[4]
概要ウィーンの位置 左のアルプス山脈と右のカルパティア山脈(図にはほとんど描かれていない)の間を流れるドナウ川のほとりにあるため、交通の要衝でもあるオーストリアにおけるウィーンの位置ウィーン市街の遠景 左に国際機関本部の集積地(ウィーン国際センター)があり、ドナウ川をはさんで旧市街が広がる

ローマ帝国の宿営地ウィンドボナ (Vindobona) をその起源とし、かつてヨーロッパの数か国を支配したハプスブルク家オーストリア帝国の首都であった。マリア・テレジア女帝時代に栄えた市街は、フランツ・ヨーゼフ1世の治下で整備された。リングと呼ばれる環状道路とその周囲の街区は、ウィーンの近代化を実現するために、19世紀の後半にかつて旧市街を囲んでいたグラシと呼ばれる防御用の空地を利用して造られたものである。シュテファン寺院(シュテファン大聖堂)や旧市街をふくむ歴史地区は、「ウィーン歴史地区」の名称で2001年にユネスコ世界遺産に登録された。ここには旧王宮であるホーフブルク宮殿(@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}現在は[いつ?]大統領官邸や博物館、国立図書館などとして使用)・ウィーン国立歌劇場ブルク劇場自然史博物館美術史博物館中央駅に近いベルヴェデーレ宮殿などが含まれる。

ウィーンは、そもそもの成り立ちが2つの道が交差するところに生まれた町であった。ドナウ川に沿ってヨーロッパを東西に横切る道と、バルト海イタリアを結ぶ南北の道(琥珀街道)である。そこはゲルマン系スラヴ系マジャール系ラテン系のそれぞれの居住域の接点にあたり、歴史的に見ても上述のように、紀元前5世紀以降ケルト人の居住する小村であったところにローマ帝国の北の拠点が建設されたのが起源であった。オスマン帝国の隆盛時には西ヨーロッパからみてイスラム勢力圏への入り口にもあたっており、伝統的にも多彩な民族性を集約する都市として栄えた。

その地理上の位置は、かつて共産圏に属した東ドイツベルリン東欧スラヴ民族の国家チェコプラハよりも東であり、第二次世界大戦後の冷戦時代にあっても、国際政治上微妙な位置にあった。

また、都心から南南西方面に離れた場所には、かつてウィーン会議の舞台となった世界遺産のシェーンブルン宮殿がある。これは、レオポルト1世が狩猟用の別荘として建てたものを、マリア・テレジアが離宮として完成させたものである。

現在のウィーンは、国際機関本部の集積地ともなっており、日本政府も在ウィーン国際機関日本政府代表部を置いている。ウィーンに本部を置いている機関は次の通り。

国際連合ウィーン事務局 (UNOV)

国際原子力機関 (IAEA)

国際連合工業開発機関 (UNIDO)

包括的核実験禁止条約機構準備委員会 (CTBTO)

国連薬物犯罪事務所 (UNODC)

石油輸出国機構 (OPEC)

欧州安全保障協力機構 (OSCE)

国際新聞編集者協会 (IPI)

国際ドナウ河保護委員会 (ICPDR)

2017年に発表された「世界の都市総合力ランキング」では、世界14位と評価された[5]。ヨーロッパの都市ではロンドンパリアムステルダムベルリンフランクフルトに次ぐ6位。
歴史詳細は「ウィーンの歴史」を参照
ローマ時代

古代ローマの時代、ウィーンはちょうどローマ帝国の北の境界にあたる位置にあり、ウィンドボナ(bona はケルト語で集落・町)と呼ばれる宿営地が置かれた。これがウィーンの地名の起源と言われている。
ハプスブルク家の帝都1683年のウィーン18世紀のウィーンシェーンブルン宮殿1900年ウィーン国立歌劇場

中世にもドナウ川沿いの交易地であったウィーンが本格的な発展期を迎えたのは、オーストリアを治めていたバーベンベルク家が1155年にクロスターノイブルクからウィーンに遷都したことに起因する。1221年、ウィーンは都市特権を獲得した。1241年、ワールシュタットの戦いモヒの戦いで勝利を収めたモンゴル帝国軍が郊外まで迫った。バーベンベルク家は13世紀半ばに断絶し、1278年よりオーストリア公となったハプスブルク家の支配下におかれた。14世紀、建設公と称されたルドルフ4世のもとで、ウィーンは大きな発展を遂げた。この時代にシュテファン寺院やウィーン大学が建てられている。やがてハプスブルク家は婚姻政策の成功により16世紀に入るとボヘミアハンガリーを初めとする多くの王国を相続し、ドイツ神聖ローマ帝国の帝位を独占。16世紀前半にはカール5世のもとヨーロッパ最大のドイツ系の帝国を築くに至る。

ドイツ民族居住地域の東端に位置し、スラヴ文化やマジャール文化の影響も受けると同時にその立地は国防上の難点でもある。1529年のオスマン帝国による第一次ウィーン包囲など、ヨーロッパ全体を震撼させる事件もあった。しかし、ハプスブルク家の支配下で帝都ウィーンでは華やかな貴族文化が栄えていた。1683年にもオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を受けたが撃退、17世紀末からは旧市街の王宮ホーフブルクに加え、離宮シェーンブルン宮殿が郊外(現在は市内)に造営された。これが18世紀末から現在に至る「音楽の都ウィーン」の礎となった。18世紀末にはヨーゼフ2世によりウィーン総合病院(ドイツ語版、英語版)が開設され、プラーター公園が一般市民に開放されるなど都市環境が改善されていった。

19世紀半ばに産業革命を迎えたウィーンは、農村からの流入により急激に人口が増加した。1869年に63万であったが1910年には203万を数え、当時のヨーロッパではロンドン、パリ、ベルリンと並ぶ都会であった。1873年にはウィーン万国博覧会も開催。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は自ら立案して大規模な都市改造を行い、市壁を撤去し環状道路(リングシュトラーセ)と置き換えた。路面電車が導入され、歴史主義的建造物やモニュメントを街路に面して配した。現在のウィーン旧市街の外観はこの改造に拠っている。

オーストリア=ハンガリー帝国は多民族国家であり、支配民族であったドイツ人は帝国の人口5千万の25%余りを占めるにすぎなかった。帝国各地からの人口流入により、ウィーンの街ではドイツ語ハンガリー語チェコ語ポーランド語イディッシュ語ルーマニア語はもちろんのこと、ロマ語イタリア語までヨーロッパのあらゆる言語を耳にすることができたと言われる。


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