ウィンチェスター_(バージニア州)
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ウィンチェスター市

ウィンチェスター市旧市街
位置

バージニア州におけるウィンチェスターの位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度10分42秒 西経78度10分00秒 / 北緯39.17833度 西経78.16667度 / 39.17833; -78.16667
歴史
独立市1802年
行政
アメリカ合衆国
  バージニア州
 市ウィンチェスター市
市長エリザベス・マイナー
地理
面積 
  市域24.2 km2
    陸上  24.2 km2
    水面  0.0 km2
      水面面積比率    0.0%
標高221 m
人口
人口(2020年現在)
  市域28,120人
  備考[1]
その他
等時帯東部標準時 (UTC-5)
夏時間東部夏時間 (UTC-4)
公式ウェブサイト : ⇒[1]

ウィンチェスター(: Winchester)は、アメリカ合衆国バージニア州北部に位置する独立市である。人口は2万8120人(2020年)。フレデリック郡郡庁所在地であり、ワシントン・ボルチモア・北バージニア広域都市圏の一部である。経済分析局は統計処理の目的で、ウィンチェスター市と周辺のフレデリック郡を結合している。ウィンチェスター市にはシェナンドー大学がある。
歴史
先住民族

西暦1000年頃、初期先住民族として、カカポン、オペクォン、ショーニーおよびタスカローラの各種族がいた。中世までに、大アパラチア渓谷の南北の自然の水路があり、カトーバ、チェロキーデラウェアイロコイおよびショーニーの各種族がこの渓谷の平原を狩猟場にしてうろついていたので、ウィンチェスターは部族間戦争が起こりそうな場所だった。最初にこの渓谷を実質支配したのはサスケハノック族だったが、その後1600年頃にイロコイ族に襲われ追い出された。イロコイ族は1694年頃から1700年代半ばまで、ショーニー族にショーニー・スプリングスで集落を築いたり一時的宿営地を造ることを許したとされている。これは初期クエーカー教徒と入植者が到着した時代と重なっている。歴史に名高いショーニー族酋長コーンズトークの父はここに居宅を持っていた。
ヨーロッパ人の探検

フランス人イエズス会の遠征隊が1606年には既にこの渓谷に入っており、サミュエル・ド・シャンプランによる原始地図が1632年に作られたが、渓谷北部の確認できる探検は探検家ジョン・レーデラーによるものであり、1670年8月26日に現在のフォーキア郡やウォーレン郡からこの渓谷を眺めた。その後1705年スイス人探検家ルイーズ・ミシェルや1716年に総督アレクサンダー・スポッツウッドによって広範な探検と地図作りが行われた。

1720年代後半、総督ウィリアム・グーチが大規模な土地特許を発行することで開拓を促進し、それに続いて領主フェアファックス卿の支配人ロバート・"キング・カーター"が20万エーカー (800 km2)の土地を獲得した。これらのことが組み合わさって、ペンシルベニアニューヨークから、クエーカー教徒や様々なドイツ人およびスコットランド系アイルランド人入植者の殺到を直接促すことになった。
ヨーロッパ人の開拓

ウィンチェスターの開拓は1729年には始まっており、エイブラハム・ホリングスワースのようなクエーカー教徒がペンシルベニアからインディアン道(後に大荷車道路と呼ばれた)沿いグレート・バレーを遡り、以前のショーニー族宿営地に入植を始めた。最初のドイツ人入植者は1732年のジョスト・ハイトとされており、スコットランド系アイルランド人の家族数組を含む10家族を伴っていた。ここは英国教会の植民地だったが、総督ウィリアム・グーチは宗教について寛容な政策であり、バージニアの全体で土地特許が可能だったので、多くの宗教を信奉する家族が訪れ、同じ宗教の特許購入者や投機家の支援によってしばしば50エーカー (20 ha) の土地を与えられた。その結果、ウィンチェスター地域は渓谷における初期長老派教会員、クエーカー教徒、ルーテル教会員および英国教会員にとって本拠地となった。最初のルーテル教会礼拝堂はジョン・キャスパー・ストーバー・ジュニア牧師によって設立され、アレクサンダー・ロスはクエーカー教徒のためにホープウェル集会所を建てた。1736年までにカーンズタウンにオペクォンの長老派教会が建設された。1735年に第6代フェアファックス卿トマス・フェアファックス(英語版)がバージニアを訪れ、イングランドチャールズ2世からの古い土地特許である「ラッパハノック川とポトマック川の間にあるバージニアの全ての土地」を含む土地所有権を主張し、これがフレデリックと重なりまたそれを含んでいた時に法廷闘争が起こった。
市制の施行

1738年までにこれら開拓地は「フレデリックタウン」と呼ばれるようになった。その後オレンジ郡からフレデリック郡が分離し、郡議会と共に英国教会フレデリック教区(税金徴収が目的)からなる最初の政府が創られた。イングランドのウィンチェスターからの移民ジェイムズ・ウッド大佐が初代議会事務官となり、1741年頃に半エーカー (2,000 m2) の土地26区画を定め、自身の住居「グレン・バーニー」を建設した。最終的に郡議会は1743年11月11日に第1会期を開催し、ジェイムズ・ウッドは1760年まで事務官を務めた。フェアファックス卿は所有権が法律の10分の9であると理解し、1748年にここに(現在のクラーク郡)住居を建てた。1750年までにバージニア植民地議会は、それまでのフレデリックタウンにバージニアでは4番目の市制を施行することになる「ウィンチェスター市」を承認した。この名前はウッド大佐の生地が古いサクソン人ウェセックス王国の首都であり、後にイングランドのウィンチェスターだったことに因むものだった。1754年、エイブラハム・ホリングスワースがエイブラムズ・デライトと呼ばれる住居を建設し、これがクエーカー教徒の初代集会所の役割を果たした。ジョージ・ワシントンは青年時代のかなりの期間をウィンチェスターで過ごしており、第6代フェアファックス卿トマス・フェアファックスのためにフェアファックス土地特許の測量を手伝い、またウッド大佐のための測量も行った。1758年ウッド大佐は町の西に158区画の土地を追加し、続いてトマス・フェアファックスが町の南と東にさらに173区画を寄付した。
フレンチ・インディアン戦争ジョージ・ワシントン大佐

エドワード・ブラドック将軍が1755年にカンバーランド砦に向かう途中でこの地域を通り、デュケーヌ砦への遠征行軍を行った。ワシントンはフェアファックス卿のための測量士だったのでその地域を熟知しており、ブラドック将軍の副官として随行した。住民のダニエル・モーガンはブラドック軍がペンシルベニアに行軍するときに荷馬車の御者として加わった。

1756年、ワシントン大佐はジェイムズ・ウッドが認可した土地にラウドン砦を設計し建設を始めたが、そこは現在のウィンチェスター中心街ノース・ラウドン通りの0.955エーカー (3,800 m2) に及ぶものとなった。ラウドン砦は独立戦争が始まるまで、兵士が駐屯し大砲が置かれた。この時代、ウィンチェスターに監獄が建設され、時には、フレンチ・インディアン戦争に抗議し、英国教会教区に税金を払うことを拒否したバージニアの多くの場所のクエーカー教徒を収容した。ペンシルベニアではクエーカー教徒が政治支配していたが、バージニアは英国教会の植民地であり、反戦主義はそれほど受け入れられなかった。クエーカー教徒の強い反戦主義は、バージニアがこの戦争と次の戦争(独立戦争)を強く支持したことと組み合わされて、長期にわたるクエーカー教徒の抑圧に繋がり、ウィンチェスターはより多くのクエーカー教徒が中西部の地へ向かう入口となり、1800年代半ばにはクエーカー教徒は極少数派となった。

フレンチ・インディアン戦争の間の1758年、26歳のワシントン大佐は、バージニア植民地議会のフレデリック郡選出議員に選ばれた。ダニエル・モーガンは後にバージニア境界地をインディアンの襲撃から守るレンジャーとして働き、1759年にウィンチェスターに戻った。戦後、1763年から1774年に、モーガンはアシュビー大尉の中隊に仕え、ポンティアックの反乱やオハイオ渓谷のショーニー族に対してバージニアを防衛した。


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