ウィンストン・ライリー
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ウィンストン・ライリー
出生名ウィンストン・ライリー
生誕1946年
出身地
ジャマイカキングストン
死没2012年1月19日
ジャンルレゲエダンスホールレゲエ
職業音楽プロデューサー作曲家歌手
担当楽器ベース
活動期間1958年 - 2012年
レーベルテクニクス
共同作業者テクニクス、スーパーソニックス他
ライリーのレーベル、テクニクスのレコード

ウィンストン・ライリー(Winston Riley、1946年[1] - 2012年1月19日)は、ジャマイカ音楽プロデューサー作曲家歌手ベーシスト

1980年代のダンスホールレゲエを牽引したテクニクス・レーベルの主宰者として最も有名であるが、1960年代後半に活躍したロックステディコーラスグループテクニクス (Techniques) のオリジナルメンバーとしてや、レゲエ歌手ジミー・ライリーの兄としても知られる。
経歴

1946年、ジャマイカ、キングストンに生まれる。1958年頃、11歳のときにタレントコンテストなどで活動を開始。高校に進学した1962年にはスリム・スミス、フレデリック・ウェイト、フランクリン・ホワイトと共にテクニクスというコーラスグループを結成し、エドワード・シアガが所有していたチョコモ・ローン・クラブなどで活動を開始した[2][3]。テクニクスのメンバーは平行してヴィクターズ[4]という名義でバンド活動も行っており、ライリーはベースを担当していた。

テクニクスは1963年、コロムビア・レコードからイギリスのみで発表された、No Oneでレコードデビュー[2][3]

その後トレジャー・アイルスタジオ・ワンなどのレーベルから多くの作品を発表するが、1966年にはリードボーカルだったスミスとホワイトが脱退[5]。代替メンバーとしてパット・ケリー、デイヴ・バーカーらを迎え"You Don't Care"、 "Queen Majesty"、 "I Wish It Would Rain"、 "It's You I Love"、 and "Love Is Not a Gamble"などの楽曲を発表するが、1968年頃ライリーがテクニクス・レーベルを立ち上げたことにより解散する。

プロデューサーとして活動を開始したライリーは、トミー・マクック&ザ・スーパー・ソニックスらを起用し自身の"I'm in Love"を制作。1969年にプロデュースしたデイヴ・アンド・アンセル・コリンズの"Double Barrel"は1971年にUKシングルチャート1位を獲得する大ヒットを記録した。

1973年にはアンセル・コリンズインストナンバーとして"Stalag 17(スタラグ17)"をリリースする。この曲名は同名の映画(邦題:『第十七捕虜収容所』)にちなんでつけられ、スタラグリディムの記念すべき最初のトラックとなる。スタラグは、"Stalag 18"、"Stalag 19"、"Stalag20"、"Ring the Alarm Quick"、"Stalag 2000"など繰り返しリメイクされ、現在においてもダンスホール・レゲエにおける重要なリディムとなっている。

1980年代から1990年代前半はライリーの黄金期となった。1982年、シスター・ナンシーの"Bam Bam"をヒットさせると、1985年、テナー・ソウの"Ring the Alerm"、1986年にはスーパーキャットの"Boops"、1988年にはレッド・ドラゴンの"Agony"、1992年にはブジュ・バントンの"Stamina Daddy"などをヒットさせた。

2012年1月19日に死去[6]。65歳没。
脚注^cap.jamrid.com
^ a b Larkin, Colin (1998) "The Virgin Encyclopedia of Reggae", Virgin Books, ISBN 0 7535 0242 9
^ a b Thompson, Dave (2002) "Reggae & Caribbean Music", Backbeat Books, ISBN 0-87930-655-6
^ シアガが所有していた同名のナイトクラブに由来するという説がある。


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