ウィレム1世 / ギヨーム1世
Willem I / Guillaume I
オランダ国王
ルクセンブルク大公
ウィレム1世(ヨセフ・パエリンク
ウィレム1世(オランダ語: Willem I, ドイツ語: Wilhelm I., 1772年8月24日 - 1843年12月12日)は、初代オランダ国王(在位:1815年3月16日 - 1840年10月7日)およびルクセンブルク大公(フランス語名ギヨーム1世、Guillaume I)である。
かつて10ギルダー紙幣に肖像が使用されていた。 父はオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の最後の総督だったオラニエ公ウィレム5世で、母はプロイセン王女(アウグスト・ヴィルヘルム王子の娘でフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の妹)ヴィルヘルミーネ。1791年、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の娘で従妹に当たるヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン(オランダ語:ウィルヘルミナ・ファン・プロイセン)と結婚した。 1795年、フランス軍の侵攻により共和国が崩壊すると、父に従ってイギリスに亡命した。1799年にはイギリス軍に加わって、フランスの属国となったオランダ(バタヴィア共和国)に侵攻したが撃退された。父ウィレム5世は亡命中の1802年にオラニエ公の称号(祖父ウィレム4世以降は名目のみとなっていた)とともに家督を譲り、1806年にドイツで死去した。 プロイセン軍に参加していたウィレムは1806年のイエナ・アウエルシュタット戦役のうちのアウエルシュタットの戦いで戦ったのち、その2日後にエアフルトをフランス軍に明け渡した。この重要な町のあっけない降伏に関して、後の調査委員会で大きな問題とされたが、義理の兄となっていたプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が介入したため、処罰を免れた[1]。 1813年にフランス軍の撤退後、オランダに帰還し、臨時政府から「君主」(プリンス)の称号を受けた。ナポレオン失脚後の1815年、ウィーン会議により、18世紀まで共和制を布いていたオランダとハプスブルク家の領土だった南ネーデルラントを併せて立憲君主国オランダ王国(ネーデルラント連合王国)が成立すると、初代国王に即位した。
生涯