カナダの政治家サー・ウィルフリッド・ローリエSir Wilfrid Laurier
生年月日1841年11月20日
出生地 カナダ、ケベック州サン・ラン
サー・ウィルフリッド・ローリエ(Sir Wilfrid Laurier フランス語: [wilf?id lo?je] 英語: [?l?rie?]、1841年11月20日 - 1919年2月17日)は、カナダの第8代連邦首相。所属政党は自由党、首相在任期間は1896年7月11日 - 1911年10月5日。ケベック州サン・ラン(現サン・ラン・ローレンティド)生まれ。弁護士、ジャーナリスト、庶民院議員。1919年2月17日、オタワで没。1887年から1919年まで自由党党首。この時代の代表的政治家。カリスマ的な人格で、腕利きかつ実務的であった。 初のフランス系カナダ人の首相として知られ、仏語圏と英語圏の調整によりカナダ連邦を拡張するなど、和解(妥協)政策でよく知られた。ローリエはまた、政治・経済面での自由を確保出来ることを前提に、イギリス帝国に残ることを認めた。45年に亘り庶民院議員を務めたこと、連邦首相在任15年間というのは、いまだ他の誰の追随も許していない。現在、カナダドルの5ドル紙幣に肖像が印刷されている[1][2][3]。 「私の眼前には常に、節度と、和解による真のカナダ主義的政策へ、夜は炎の柱が、昼は雲の柱が立っている」[4]「カナダは自由であり、自由がその国民性である」「どんな犠牲を払っても市民の自由は守り抜くという責務を貫き通す」という名言を遺している[5]。 1864年、マギル大学で法学を専攻し、モントリオールで開業。1866年、ラブニールに転居、さらにアサバスカに移り、新聞「ル・デフリシュール」を発行する。過激派のパルティ・ルージュ
人物
来歴
1877年10月、ケベック・シティーで、自由主義政治について精力的な演説をした後、アレクサンダー・マッケンジー内閣に内国歳入担当大臣として入閣。地元ケベックでは最も卓越した自由党議員となる。1878年と1882年の選挙で自由党は敗北するも、ローリエ自身は当選を重ねた。1885年、ルイ・リエルの絞首刑により、メティスの指導者であるリエルの主張を熱心に弁護し、フランス系とイギリス系の統一が必要であると主張した。1887年に、前年の選挙で敗れた自由党の党首エドワード・ブレイク(英語版)から、次の党首に指名された。[1]
連邦首相就任
アメリカとの無制限互恵1869年当時のローリエ
自由党が掲げた無制限互恵とは、アメリカ、カナダの両国はそれぞれの関税を撤廃するものの、政治上の併合は回避する、そのために、第三国には米加それぞれが独自の関税を維持するというものだった。1890年4月にアメリカ下院に上程されたマッキンリー関税法案による農業保護関税は、カナダからの大麦、小麦、トウモロコシの輸入阻止が目的であったため、農民層からの非難の声が強まり、自由党には渡りに舟となった。また、10年以上の不況下にあった世界経済が、時を同じくして回復し始め、イギリス資本が投下されたカナダは好景気となった。[6]
一方で、当時のイギリス本国では、アングロサクソン優先主義を掲げ、「イギリス最強の帝国主義者」と呼ばれたジョゼフ・チェンバレンが植民地大臣で、これは、フランス系のローリエには受け入れられなかった。