ウィリー・リンカーン
[Wikipedia|▼Menu]

ウィリー・リンカーン
Willie Lincoln
ウィリー・リンカーン(1855年ごろに撮影)
生誕 (1850-12-21) 1850年12月21日
アメリカ合衆国
イリノイ州スプリングフィールド
死没 (1862-02-20) 1862年2月20日(11歳没)
アメリカ合衆国
ワシントンD.C.
エイブラハム・リンカーン(父親)
メアリー・トッド・リンカーン(母親)
テンプレートを表示

ウィリアム・ウォレス “ウィリー”・リンカーン(英語: William Wallace "Willie" Lincoln, 1850年12月21日 - 1862年2月20日)は、第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンメアリー・トッド・リンカーンの三男。11歳で病死した。
スプリングフィールドの生活

ウィリー・リンカーンは1850年12月21日エイブラハム・リンカーンメアリー・トッド・リンカーンの三男として出生した[1]。下の兄のエディ・リンカーンは10か月前の1850年2月1日に亡くなっていた[1]

イリノイ州スプリングフィールドに在住していた期間に、ウィリーとその弟のタッドは「悪名高いいたずらっ子」とみなされていた。エイブラハムと法律事務所を共同で経営するウィリアム・ハーンドンは棚から本を引っ張り出し、事務所内をひっかきまわしている子どもたちにエイブラハムが気付いていないと書き残している[2]

両親と同様に勉学を好み、非常に賢い子どもであった。を書き、鉄道時刻表を作成し、数学に優れた能力を発揮した[1]。また、穏やかな心を持ち、タッドより良心的であった[1]
ホワイトハウスの生活

エイブラハムが1860年アメリカ合衆国大統領選挙に勝利してアメリカ合衆国大統領に選出されたため、一家はホワイトハウス移住した。ここがウィリーとタッドの新たな遊び場となった。メアリーの要請に応じてジュリア・タフト(英語版)(1845-1933)、彼女の14歳の弟「バド」(ホレイショ・ネルソン・タフト・Jr.、1847-1915)[3]と12歳の弟「ホリー」(ハルゼイ・クック・タフト、1849-1897)[3]がホワイトハウスに呼ばれ、2人の男の子はウィリーとタッドの遊び仲間になった[4][5]。また、この三人の姉弟の長兄(異母兄)であったチャールズ・サビン・タフト(英語版)(1835-1900)[3]は内科医であり、後1865年4月14日夜、エイブラハム・リンカーン大統領がフォード劇場で狙撃された際、偶然に客席に居合わせ、同じく居合わせた外科医チャールズ・リールとともに、遭難直後の大統領を診察した医師二人のうちの一人となった。[6]
病と死ウィリー・リンカーン。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:23 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef