ウィリー・ホートン_(野球)
[Wikipedia|▼Menu]

ウィリー・ホートン
William Horton
2010年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地バージニア州アルノ
生年月日 (1942-10-18) 1942年10月18日(81歳)
身長
体重5' 11" =約180.3 cm
209 lb =約94.8 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手, 指名打者
プロ入り1961年
初出場1963年9月10日
最終出場1980年10月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

選手歴


デトロイト・タイガース (1963 - 1977)

テキサス・レンジャーズ (1977)

クリーブランド・インディアンス (1978)

オークランド・アスレチックス (1978)

トロント・ブルージェイズ (1978)

シアトル・マリナーズ (1979 - 1980)

コーチ歴


ニューヨーク・ヤンキース (1985)

シカゴ・ホワイトソックス (1986)

この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ウィリアム・ワッティソン・ホートン(William Wattison Horton 1942年10月18日 - )は、アメリカ合衆国バージニア州アルノ出身の元プロ野球選手外野手)。右投右打。

デトロイト・タイガース史上初の黒人選手。
経歴
現役時代

1961年8月7日、アマチュア選手のフリーエージェントとしてデトロイト・タイガースと契約を結んだ。

1963年9月10日ワシントン・セネターズ戦でメジャーデビューを果たした。代打で登場し、1安打を放った。シーズン通算では15試合に出場し、打率.326、1本塁打、4打点、2盗塁と限られた出場機会で好成績をマーク。

1965年、外野のレギュラーに定着。打率こそ.273と平凡だったものの、29本塁打、104打点という好成績をマーク。オールスターゲームにも出場し、MVP投票では8位に入った。

1966年、27本塁打、100打点という成績をマーク。2年連続で25本塁打と100打点をクリア。MVP投票では21位に入った。

1968年8月24日ニューヨーク・ヤンキース戦でメル・ストットルマイヤー投手から本塁打を放ち、自身初の30本塁打をクリア。最終的にはリーグ3位となる36本塁打を記録した(1位はセネターズのフランク・ハワードで44本)。自身2度目のオールスターゲームにも出場、MVP投票では4位に入った。現役時代のホートン (1975年)

1970年、開幕から好調を維持し、自身3度目となるオールスターゲームにも出場。しかし、途中で戦線離脱となり、96試合の出場に留まった。

1973年、111試合の出場に留まったが、自己最高の打率.316を記録。オールスターゲームに出場、MVP投票では29位に入った。

1977年4月12日、スティーブ・フォーコールト投手とのトレードでテキサス・レンジャーズに移籍。

1978年2月28日、トム・バスキー投手・ジョン・ローウェンスタイン外野手の2人とのトレードでデビッド・クライド投手と共にクリーブランド・インディアンスに移籍。しかし、50試合の出場で、打率.249、5本塁打、22打点と振るわず、7月3日にインディアンスを解雇された。7月13日オークランド・アスレチックスと契約。32試合に出場し、打率.314、3本塁打、19打点という好成績をマークした。8月15日、リコ・カーティ外野手とのトレードでフィル・ハフマン投手と共にトロント・ブルージェイズに移籍。移籍後は33試合で、打率.205、3本塁打、19打点と不振に終わった。12月2日、フリーエージェントとなった。

1979年1月27日シアトル・マリナーズと契約。打率.279、29本塁打、106打点と復活し、MVP投票でも24位に入った。12月1日にフリーエージェントとなるが、12月20日にマリナーズと再契約。

1980年は前年のような好成績を残すには至らず、12月12日に大型トレードで古巣のレンジャーズに移籍(トレードの内訳:ホートンと、ラリー・コックス、リック・ハニカットマリオ・メンドーサ、レオン・ロバーツがレンジャーズに移籍。リッチー・ジスク、リック・オアーバック、ケン・クレイ、ジェリー・ドングレートン、ブライアン・アラード、スティーブ・フィンチがマリナーズに移籍)。しかし、レンジャーズ移籍後は試合に出場しなかった。結局、移籍前の10月5日にマリナーズで出場した試合が、ホートンにとってのメジャーリーグでのラストゲームとなった。

1981年4月1日、レンジャーズから解雇され、5月4日ピッツバーグ・パイレーツと契約を結ぶが、試合には出場せず、その後2年間は傘下マイナーリーグであるパシフィックコーストリーグメキシカンリーグにてプレイした。
引退後ホートンのタイガース在籍時の背番号「23」。
デトロイト・タイガースの永久欠番2000年指定。

引退後は1985年ニューヨーク・ヤンキース、翌1986年シカゴ・ホワイトソックスでコーチを務める。2000年、古巣タイガースは、新球場・コメリカ・パークの開場に併せて、ホートンの在籍時の背番号『23』を永久欠番に指定した(ちなみに欠番指定前、タイガースで最後に背番号23を付けたのは野茂英雄である)。

2003年よりタイガースのGM特別補佐に就任している。
人物

1967年に起きた人種差別を巡るデトロイトでの暴動でホートンは、群集の中心にユニフォーム姿で現れ、暴徒に平和を訴えた。

1968年にはワールドシリーズに出場し、この第5戦(タイガースは1勝3敗で相手のセントルイス・カージナルスに優勝のリーチをかけられていた)において、ホートンは見事なバックホームを行い、ランナーのルー・ブロックを本塁アウトにした。このホートンの返球でタイガースが勢いを盛り返して、結果ワールドシリーズを制している。

前述の通り、ホートンのタイガース時代の背番号『23』は、2000年に永久欠番となったが、欠番指定前にはカーク・ギブソン野茂英雄が『23』番をつけていた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:50 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef