ウィリー・ホートン
William Horton2010年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地バージニア州アルノ
ウィリアム・ワッティソン・ホートン(William Wattison Horton 1942年10月18日 - )は、アメリカ合衆国・バージニア州アルノ出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。
デトロイト・タイガース史上初の黒人選手。 1961年8月7日、アマチュア選手のフリーエージェントとしてデトロイト・タイガースと契約を結んだ。 1963年9月10日、ワシントン・セネターズ戦でメジャーデビューを果たした。代打で登場し、1安打を放った。シーズン通算では15試合に出場し、打率.326、1本塁打、4打点、2盗塁と限られた出場機会で好成績をマーク。 1965年、外野のレギュラーに定着。打率こそ.273と平凡だったものの、29本塁打、104打点という好成績をマーク。オールスターゲームにも出場し、MVP投票では8位に入った。 1966年、27本塁打、100打点という成績をマーク。2年連続で25本塁打と100打点をクリア。MVP投票では21位に入った。 1968年8月24日、ニューヨーク・ヤンキース戦でメル・ストットルマイヤー投手から本塁打を放ち、自身初の30本塁打をクリア。最終的にはリーグ3位となる36本塁打を記録した(1位はセネターズのフランク・ハワードで44本)。自身2度目のオールスターゲームにも出場、MVP投票では4位に入った。現役時代のホートン (1975年) 1970年、開幕から好調を維持し、自身3度目となるオールスターゲームにも出場。しかし、途中で戦線離脱となり、96試合の出場に留まった。 1973年、111試合の出場に留まったが、自己最高の打率.316を記録。オールスターゲームに出場、MVP投票では29位に入った。
経歴
現役時代
1978年2月28日、トム・バスキー投手・ジョン・ローウェンスタイン外野手の2人とのトレードでデビッド・クライド投手と共にクリーブランド・インディアンスに移籍。しかし、50試合の出場で、打率.249、5本塁打、22打点と振るわず、7月3日にインディアンスを解雇された。7月13日にオークランド・アスレチックスと契約。32試合に出場し、打率.314、3本塁打、19打点という好成績をマークした。8月15日、リコ・カーティ外野手とのトレードでフィル・ハフマン投手と共にトロント・ブルージェイズに移籍。移籍後は33試合で、打率.205、3本塁打、19打点と不振に終わった。12月2日、フリーエージェントとなった。
1979年1月27日、シアトル・マリナーズと契約。打率.279、29本塁打、106打点と復活し、MVP投票でも24位に入った。12月1日にフリーエージェントとなるが、12月20日にマリナーズと再契約。
1980年は前年のような好成績を残すには至らず、12月12日に大型トレードで古巣のレンジャーズに移籍(トレードの内訳:ホートンと、ラリー・コックス、リック・ハニカット、マリオ・メンドーサ、レオン・ロバーツがレンジャーズに移籍。リッチー・ジスク、リック・オアーバック、ケン・クレイ、ジェリー・ドングレートン、ブライアン・アラード、スティーブ・フィンチがマリナーズに移籍)。しかし、レンジャーズ移籍後は試合に出場しなかった。結局、移籍前の10月5日にマリナーズで出場した試合が、ホートンにとってのメジャーリーグでのラストゲームとなった。
1981年4月1日、レンジャーズから解雇され、5月4日にピッツバーグ・パイレーツと契約を結ぶが、試合には出場せず、その後2年間は傘下マイナーリーグであるパシフィックコーストリーグやメキシカンリーグにてプレイした。
引退後ホートンのタイガース在籍時の背番号「23」。
デトロイト・タイガースの永久欠番に2000年指定。
引退後は1985年にニューヨーク・ヤンキース、翌1986年にシカゴ・ホワイトソックスでコーチを務める。2000年、古巣タイガースは、新球場・コメリカ・パークの開場に併せて、ホートンの在籍時の背番号『23』を永久欠番に指定した(ちなみに欠番指定前、タイガースで最後に背番号23を付けたのは野茂英雄である)。
2003年よりタイガースのGM特別補佐に就任している。 1967年に起きた人種差別を巡るデトロイトでの暴動でホートンは、群集の中心にユニフォーム姿で現れ、暴徒に平和を訴えた。 1968年にはワールドシリーズに出場し、この第5戦(タイガースは1勝3敗で相手のセントルイス・カージナルスに優勝のリーチをかけられていた)において、ホートンは見事なバックホームを行い、ランナーのルー・ブロックを本塁アウトにした。このホートンの返球でタイガースが勢いを盛り返して、結果ワールドシリーズを制している。 前述の通り、ホートンのタイガース時代の背番号『23』は、2000年に永久欠番となったが、欠番指定前にはカーク・ギブソンや野茂英雄が『23』番をつけていた。
人物